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西魏2014年6月21日 (土) 22:33版を全文複写
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'''八柱国'''(はちちゅうこく)とは、[[中国]][[西魏]]において[[柱国|柱国大将軍]]に任じられた8名の将軍のこと。その筆頭である[[宇文泰]]が次の[[北周]]を建国し、他の7名の多くが建国の功臣として扱われた。
{{Otheruses|南北朝時代の西魏|秦の滅亡後に短期間存在した同じ呼び名の国|魏豹}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 =
|日本語国名 = 西魏
|公式国名 = 魏
|建国時期 = [[535年]]
|亡国時期 = [[556年]]
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{{中国の歴史}}
'''西魏'''(せいぎ、[[拼音]]:Xīwèi、[[535年]] - [[556年]])は、[[中国]]の[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]にあった北朝の国の一つ。[[北魏]]が分裂して成立した2つの魏のうち、[[函谷関]]の西側で[[関中]]<!--(現在の[[陝西省]])-->を中心とした版図を持つ国の呼び名。函谷関の東側で[[中原]]を中心とした版図を持つ国の方は[[東魏]]と呼んで区別する。
 
「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな'''魏'''である。また、東魏・西魏のそれぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。
 
なお、東魏を継承した[[北斉]]にて編纂された正史『[[魏書]]』においては、東魏の皇帝を北魏の歴代皇帝に加えたために[[文帝 (西魏)|文帝]]以降の西魏の皇帝については記述が存在しない。西魏の一部の臣下については次の[[北周]]の建国の功臣として『[[周書]]』に記載があるケースもあるが、皇帝に関しては、[[唐]]の時代に『[[北史]]』が編纂されるまで[[本紀]]が書かれる事は無かった。これを補うための西魏一代を扱った歴史書としては[[清]]の時代に[[謝蘊山]]によって書かれた『[[西魏書]]』([[:zh:西魏書|zh]])がある。
 
== 概要 ==
元々、柱国大将軍は称号である「[[柱国]]」と官職である「[[大将軍]]」が組み合わさった称号で、単なる上位の軍人に与えられる雑号将軍の扱いであったが、北魏後期の[[孝荘帝]]の時代にその擁立に功績があった[[爾朱栄]]が与えられて丞相よりも上位に位置づけられたことによって国家の事実上の最高指導者の地位とみなされるようになった。
534年、大丞相[[高歓]]を排除しようと謀って失敗した北魏の[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]は、[[洛陽市|洛陽]]から逃れて[[関中]]に入り、[[宇文泰]]に保護された。皇帝を失った高歓はやむなく[[ギョウ|&#x9134;]]で元善見を帝に擁立する。これが東魏の[[孝静帝]]である。一方、宇文泰は孝武帝を保護してはみたものの相性が悪く、結局これを毒殺して535年1月に元宝炬を帝に擁立した。これが西魏の[[文帝 (西魏)|文帝]]である。
 
その後、北魏末期の混乱によって爾朱氏が滅び、[[高歓]]と宇文泰が別々の皇帝を擁立して北魏が分裂状態([[東魏]]と西魏)に陥ると、それぞれ柱国大将軍に任ぜられた(前者は532年、後者は537年)。宇文泰は自分だけでなく、皇族の重鎮であった[[元欣]]や自分と同じ[[武川鎮軍閥]]に属する6名の有力な将軍にも柱国大将軍を与え、[[]]に宇文泰が後の北周の国制につながる官制改革(『周礼』に由来する三公・六卿の導入)に導入する事には8名の柱国大将軍が任じられた。これが八柱国と呼ばれる人々である。
西魏では当初から宇文泰が完全に実権を握り、その3代の皇帝はいずれも傀儡でしかなかった。西魏は21年余の命脈を保つが、宇文泰はそのほぼ全期間にわたってこの国の事実上の経営者だった。548年には[[太師]]・[[丞相|大冢宰]]に任じられ、名実ともに西魏の支配者としての地位を確立する。
 
西魏はその初めこそ、広大な農耕地を懐に抱える東魏に対して国力では劣ったものの、機を捉えた戦略で軍事的には大きな戦果を挙げている。
 
549年に南朝の[[梁 (南朝)|梁]]が[[侯景]]の乱で混乱を始めると、侯景打倒を図る梁の皇族達と手を結び、その代償として北魏の分裂時に梁から奪われた漢中地方を取り戻した他、553年には[[四川省|四川地方]]を奪って版図を拡大した。554年には[[江陵県|江陵]]を陥して梁の[[元帝 (南朝梁)|元帝]]を自殺させ、代わりに[[雍州]][[刺史]]として[[襄陽市|襄陽]]にいた武帝の孫の一人・[[蕭サツ|蕭&#35431;]]を江陵に送って梁王とし、これを優遇した。こうして成立した[[後梁 (南朝)|後梁]]は西魏の事実上の傀儡政権で、以後西魏は江陵の周囲800里ほどを後梁の直轄領とした他は、その版図をほぼことごとく実効支配した。ここに西魏の優勢は不動のものとなり、その西魏を[[簒奪]]した[[北周]]、さらにその北周を簒奪した[[隋]]によって、中国は再統一されることになる。
 
これに対して、東魏との戦いは一進一退が続き、550年に高歓の息子である[[高洋]]が東魏から禅譲を受けて北斉を建国すると、宇文泰は直ちに東伐を行った、大雨にたたられた西魏軍がなすすべもなく引き上げると、西魏に傾きかけた旧東魏の人々も北斉に従うようになった(『資治通鑑』梁・簡文帝大宝元年11月条)。皮肉にも東魏の滅亡は(北)魏の皇帝の正統性の問題を解消させることとなり、西魏にとっては南進への環境をを整える結果となった<ref>前島佳孝「東魏・北斉等の情勢と西魏の南進戦略総括」(『西魏・北周政権史の研究』(汲古書院、2013年) ISBN 978-4-7629-6009-3 第二部第六章)</ref>。
 
556年10月に宇文泰が死ぬと、三男の[[孝閔帝|宇文覚]]がただちに太師・大冢宰を継承、12月には周公に封じられた。恭帝はその月のうちに宇文覚に[[禅譲]]の詔を出し、ここに西魏は滅んだ。年明けの557年正月朔日、宇文覚は[[天王]]に即位、国号も周([[北周]])と革められた。
 
== 歴代皇帝 ==
#中宗 [[文帝 (西魏)|文帝]](元宝炬、在位:535 – 551年)
#[[廃帝 (西魏)|廃帝]](元欽、在位:551年 – 554年)
#[[恭帝 (西魏)|恭帝]](元廓、在位:554年 – 556年)
 
== 年号 ==
#[[大統]] (535 – 551年)
#廃帝*(551 – 554年)
#恭帝*(554 – 556年)
:*<small>廃された廃帝と、在位が短く禅譲によって国を滅ぼした恭帝の治世には元号がない。このため西魏の最後の6年は時の皇帝の帝号を年号として記年される。</small>
 
== 八柱国 ==
#使持節・総百揆・柱国大将軍・督中外諸軍事・録尚書事・大行台・安定郡開国公 [[宇文泰]]
#使持節・太尉・柱国大将軍・大都督・尚書左僕射・隴右行台・少師・隴西郡開国公 [[李虎]]
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#使持節・柱国大将軍・大都督・大司空・常山郡開国公 [[于謹]]
#使持節・柱国大将軍・大都督・少傅・彭城郡開国公 [[侯莫陳崇]]
 
八柱国の下には十二大将軍を置き、さらにその下に二十四開府を置き、この24軍団が西魏・北周における府兵制に基礎となった。また、八柱国を出した家(八柱国家)は、門閥の筆頭に位置づけられていた(『周書』)。
 
『周書』巻16及び『大唐六典』巻2(尚書吏部・司勲郎中条)による。他の史料でも李虎以外の序列は全て合致しているものの、李虎の位置だけは『通典』巻34(職官一六・勲官条)・『文献通考』巻64(職官一八・勲官条)では元欣の下(第3位)、『資治通鑑』巻163(梁・簡文帝大宝元年条)では李弼の下(第4位)に置かれている。前島佳孝の研究によれば、唐の時代に編纂された『周書』の段階において李虎すなわち唐の追尊皇帝・太祖を皇祖と位置づけ他の人臣の下に置かれないように史料操作が行われたとみる(北周の建国者である宇文泰の第1位を動かせない)。前島は八柱国のうち、李虎・侯莫陳崇以外の6名(宇文泰を含む)がとともに柱国大将軍とともに導入された六卿に任じられた事実に着目し、少師であった李虎は少傅であった侯莫陳崇よりは上位であるが、六卿よりは下位、すなわち第7位が正しい順位であったと推定する<ref>前島佳孝「西魏八柱国の序列について」(初出:『史学雑誌』第108編第8号(1999年)/所収: 前島『西魏・北周政権史の研究』(汲古書院、2013年) ISBN 978-4-7629-6009-3 第一部第三章)</ref>。
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<references/>
 
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[[Category:魏晋南北朝時代中国王朝制度史]]
[[Category:鮮卑]]
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