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'''清水 宗治'''(しみず むねはる、[[天文 (元号)|天文]]6年([[1537年]]) - [[天正]]10年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]([[1582年]][[6月23日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[備中国]][[高松城 (備中国)|高松城]]主。通称は'''長左衛門'''。[[三村氏]]、[[毛利氏]]に仕えた。[[清水宗則]]の子。三村氏の有力配下[[石川久智]]の娘婿となり、子供に[[清水宗之|宗之]]、[[清水景治|景治]]、兄に[[清水宗知|宗知]](月清入道)がいる。
 
== 生涯 ==
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また、戦において捕らえられた高い身分の武士も、大抵は首を刎ねるのが普通であり、切腹させるといった習慣は無かった。場合によっては磔にする事もあった。
 
切腹の作法が変化する転機となったのは、この清水宗治の切腹からであった。水上に舟を漕ぎ出し、そして切腹の前にひとさし舞ったのち、潔く腹を切り、[[介錯人]]に首を刎ねられた清水宗治の作法は見事であるとして、それを実際に見た武士達の賞賛を受けた。秀吉は信長の敵討ちのために一刻も早く京へと戻りたいところであったが、「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」と陣から一歩も動かなかったといわれている。また、後に小早川隆景に会った秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したという。
 
これ以降、武士にとって切腹は名誉ある死という認識が広まり、また刑罰としても切腹を命じる習慣が広まった。後に秀吉は、[[豊臣秀次]]、[[千利休]]らを処罰するにあたって、切腹を命じている。
 
== 関連文献 ==
* [[武士の宴]](小説、短編集[[西国城主]]に収録。[[野中信二]]著)
 
== 関連作品 ==
; 映画
* [[天兵童子]] 第一話第四話(1941年、演:[[大邦一公|大国一公]])
* [[天兵童子 第一編 波濤の若武者|天兵童子 第一編]] [[天兵童子 第二編 高松城の蜜使|第二編]] [[天兵童子 完結編 日の丸初陣|完結編]](1955年、演:[[岡譲二|岡譲司]])
; テレビドラマ
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* [[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|大河ドラマ『功名が辻』]](2006年、NHK、演:[[木下浩之]])
* [[戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち|テレビ東京新春ワイド時代劇『戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち』]](2011年、TX、演:[[中村雅俊]])
 
== 参考文献 ==
* [[楠戸義昭]]『戦国武将名言録』[[PHP研究所]]、[[2006年]]
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
;書籍
* [[楠戸義昭]]『戦国武将名言録』[[PHP研究所]]、[[2006年]]
;史料
 
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
{{wikisourceWikisource|ひとさしの舞}}
* [http://www.bitchu.jp/index.html 清水宗治Web]
 
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