「厳原港」の版間の差分

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==概要==
[[リアス式海岸]]の入り江地形を利用した港湾で、東向きの湾口から北々西方向にのびる入り江にある厳原地区と、厳原地区の入り江から分岐して南西方向にのびる続く入り江にある久田地区から為る。
 
厳原地区は、すぐ近くに[[対馬市]]の中心市街地があることから、対馬市の南の玄関口となっており、旅客[[ターミナル]]など主要な施設だけでなく、税関や海上保安部などの合同庁舎も立地している。一方、久田地区には、水産物や木材及び、石油などを取扱う岸壁などが配置されており、特に水産物は厳原地区に運ばれ、ここからフェリーによって福岡方面に出荷されている。なお、両地区は、平成25年7月に開通した臨港道路「志賀の鼻大橋」により行き来しやすくなっている。
両地区の間の海岸は断崖となっており、港湾施設は置かれていない。このため両地区を結ぶ道路は山腹を走る、カーブが多い一車線道路のみであり、陸路での地区間の連絡はやや不便である。また、厳原地区のすぐ北側に[[対馬市]]の中心市街地があることから、旅客[[ターミナル]]など主要な施設はほとんど厳原地区に集中している。
 
なお、現在両地区をむすぶ臨港道路(片側一車線)が埋め立てと橋梁により建設中であり、久田地区内では一部開通している。この道路が全線開通すると地区間の交通がかなり便利になる。
 
歴史的には古来から[[朝鮮半島]]との交易港として栄えてきた。[[江戸時代]]の[[鎖国]]期にも[[江戸幕府]]公認の朝鮮交易港として、同時に[[朝鮮通信使]]の中継港として大きな役割を果たした。また江戸時代には、[[対馬府中藩]]の[[城下町]]である府中(現在の厳原)に隣接しているため藩船停泊地となっており、久田地区にお船江([[#名所など|後述]])という藩船専用の船着き場が置かれた。
[[第二次世界大戦]]直後には大陸からの引き揚げ者の中継港となり、港は引き揚げ者であふれていたという。そのような状況の中、[[1945年]]には行方不明者800名以上ともいわれる大惨事になった[[珠丸|珠丸事故]]が起きている。
近年は、韓国の釜山とを行き来する定期航路が就航しており、毎年十数万人の観光客が対馬を訪れている。
 
==施設==