削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
18行目:
[[画像:Surikov_streltsi.jpg|thumb|250px|right|銃兵処刑の朝(1698年に反乱を起こしたストレレッツがモスクワの赤の広場で処刑される場面) Vasily Ivanovich Surikov 1881年作]]
 
1682年、皇帝[[フョードル3世]]が死去した後、その姉[[ソフィア・アレクセーエヴナ]]らの扇動により一部のストレレッツが暴動を起こした({{仮リンク|ストレリツィの蜂起 (1682年)|ru|Стрелецкий бунт (1682)|en|Moscow Uprising of 1682}})。この政変により、病弱な[[イヴァン5世]]とまだ幼い[[ピョートル1世]]が共同で皇帝となり、彼らの代わりにソフィアが摂政として実権を握ることとなった。この体制は1689年にピョートル1世がクーデターを起こし、ソフィアを失脚させるまで続くこととなる。
 
その後ピョートル1世は近代化政策を進めるとともにストレレッツの軍事的・政治的活動に対して徐々に制限をかけていった。これに反発するストレレッツにより、1698年7月にモスクワにて大規模な{{仮リンク|ストレリツィの蜂起 (1698年)|en|Streltsy Uprising}}が起きたが、ピョートル大帝により鎮圧され、モスクワのストレリツィの解散命令が出されることとなった。しかしながら、1700年の[[ナルヴァの戦い]]での敗北を受け、政府はストレリツィの解散をいったん中止し、[[大北方戦争]]の重要な局面、特に1711年の[[プルート川の戦い]]などにストレリツィの精鋭軍を投入した。その後、ストレリツィはロシア正規軍に吸収されていった。1711年にはモスクワのストレリツィが廃止され、また1716年までに地方都市のストレリツィも徐々に解散・再編成されていき、その歴史に幕を下ろした。
 
== 装備と戦術 ==