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[[奈良県]][[高市郡]][[明日香村]]出身。明日香村名誉村民。
==略歴==
父の網干順三は[[梶井基次郎]]の異母弟。生家は石舞台古墳のすぐ下にある唯称寺という浄土宗の寺で、1933年(昭和8)から始まった第一次石舞台発掘調査にふれあい接して考古学に関心を持つようになる。
 
旧制畝傍中学校(現、[[奈良県立畝傍高等学校]])時代より、京都帝国大学考古学研究員であった[[末永雅雄]]([[橿原考古学研究所]]初代所長、関西大学名誉教授、[[文化功労者]]、[[文化勲章]]受章者)が陣頭指揮を執る[[石舞台古墳]]の発掘調査に参加するなど、考古学に傾倒し、橿原考古学研究所に通いつめ、末永の薫陶を受ける。中学校を卒業後、佛教専門学校(現、[[佛教大学]])に学び、末永博士が教えていた[[龍谷大学]]文学部史学科へ進学。以降、末永博士の講義を学部、大学院、その後と17年間聴き続けた。龍谷大学大学院文学研究科修了。文学博士。関西大学助教授で奈良県立橿原研究所所員だった1972年、[[高松塚古墳]]で彩色壁画を発掘、日本中に考古学ブームをもたらした。その後、末永雅雄の後任として関西大学文学部教授、同博物館長を経て名誉教授。その後、佛教大学講師などを歴任。