「安重根」の版間の差分

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== 安重根の子孫 ==
===; 安俊生===
: [[image:MNSP1939y10m18d.jpg|right|230px|thumb|安俊生(左端)と伊藤文吉(右の和装)]]
*: 安重根の次男・[[安俊生]]は、出生前に父がウラジオストクに行ったため、父とは面識はなかった。事件後、母に連れられ満洲、シベリアなどを流浪し、上海租界に在住。杭州の大学を卒業した。[[1939年]]、[[内鮮一体]]の活動の一環で上海在留朝鮮人の「満鮮視察団」に加わり<ref name="anko">{{cite web|url=http://jairo.nii.ac.jp/0019/00122258/en |title=「博文寺の和解劇」と後日談 : 伊藤博文,安重根の息子たちの「和解劇」・覚え書き |publisher=JAIRO - 国立情報学研究所 |format=pdf |author=水野直樹 |date=2011-03-01 |accessdate=2014-02-24}}</ref>、一行は10月9日に[[朝鮮総督府]]を訪れて総督[[南次郎]]と面談。11日に平壌で解散した後、俊生は数名の同行者と[[10月15日]]にソウルに建立された[[博文寺]]を訪問。伊藤博文の位牌に対して焼香した<ref>「[[京城日報]]」1939年10月16日付より。</ref>。さらに翌[[10月16日]]には、[[ウェスティン朝鮮ホテル|朝鮮ホテル]]で伊藤博文の息子である[[伊藤文吉 (男爵)|伊藤文吉]]と面会し謝罪した<ref>「[[毎日新報]]」1939年10月18日付より。</ref><ref name="an">{{cite news|url=http://www.j-cast.com/2013/11/20189538.html |title=「義士」なのか「犯罪者」なのか 安重根の評価巡り対立深まる |publisher=Jcastニュース |date=2013-11-20 |accessdate=2013-11-21}}</ref>。
: 演出された和解劇であったが、この話を新聞で知った韓国独立運動家の[[金九]]<ref>金九の長男の金仁は、安重根の姪の安美生と結婚しており、姻戚関係にあった。このために安俊生が内鮮一体に賛同したことは、彼とっては(金九の[[李氏朝鮮の家族制度|家長的権威]]の無視であって面子を潰されたことになるので)家族的な大問題であり、許されざる行為であった。</ref>は、「南総督<ref>[[満州事変]]時に陸軍大臣。後に関東軍司令官。戦後、A級戦犯として終身刑になった。内鮮一体、創氏改名は彼の代で提唱されたもの。個人的には穏和で誰にでも人当たりの良い人で、安俊生らとの面会でも気さくに振る舞ったことが記されている。</ref>を父と呼んだ」として激怒し、俊生は「韓奸」であるとみなして殺害を図った。金九は当時[[重慶]]にいた蒋介石に俊生を逮捕して絞首刑にするよう強く依頼した<ref name="anko" />。しかし上海の当局はその要請を黙殺。俊生は上海で薬局を営んでいて実際に殺されることはなかったが、終戦後もしばらく帰国をためらい、母の死後、俊生はようやく帰国。韓国でひっそり暮らし、朝鮮戦争中に釜山に避難しているときに、デンマーク国籍の病院船内で結核で死去した。
: 俊生の子(つまり安重根の孫)安雄浩は米国に移民して中国系女性と結婚。さらにその息子(つまり曾孫)のトニー・アン・ジュニアはすっかり「韓国語もしゃべれない米国人」<ref name="trr" />になってしまったが、暗殺事件104周年記念で韓国を訪れた<ref name="trr">{{cite news|url=http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20131123/frn1311231308001-n1.htm |author=黒田勝弘| title=安重根の子孫は米国人 韓国語しゃべれず…興味深い家族史 |publisher=zakzak |date=2013-11-23 |accessdate=2013-11-23}}</ref>。
 
===; 安賢生===
:俊生の子(つまり安重根の孫)安雄浩は米国に移民して中国系女性と結婚。さらにその息子(つまり曾孫)のトニー・アン・ジュニアはすっかり「韓国語もしゃべれない米国人」<ref name="trr" />になってしまったが、暗殺事件104周年記念で韓国を訪れた<ref name="trr">{{cite news|url=http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20131123/frn1311231308001-n1.htm |author=黒田勝弘| title=安重根の子孫は米国人 韓国語しゃべれず…興味深い家族史 |publisher=zakzak |date=2013-11-23 |accessdate=2013-11-23}}</ref>。
*: 安重根の長女・安賢生(日本名:大川安子)は、事件があったときは8歳だったが、すぐに出国した母と弟とは分かれて、父が懇意にしていたフランス人神父の保護を受けながら[[明洞聖堂]]の修女院で暮らし、5年後に帝政ロシア末期のウラジオストクに亡命して家族と合流。革命とシベリア出兵の混乱を避けて、中国・[[上海フランス租界]]に移り、フランス文学と美術を勉強した。25歳で黄一清と結婚。賢生は満鮮視察団には同行しなかったが、夫は同租界の電車会社の車掌監督で、その夫と共に1941年3月に博文寺を参拝して、弟と同様に伊藤博文を慰霊した<ref name="anko" />。この模様も[[京城日報]]によって報道されているが、彼女に関しては名指しでの殺害指令は出されていない。参拝した時期は日本軍による上海租界の占領の前である。
 
: 帰国後はソウル在住。朝鮮戦争時に大邱に移り、大邱曉星女子大(大邱カトリック大学)で教職についた<ref>{{cite news|url=http://japanese.joins.com/article/563/127563.html?servcode=400&sectcode=400 |title=安重根義士の娘、曉星女子大の仏文学教授だった |publisher=中央日報 |date=2010-03-26 |accessdate=2014-02-24}}</ref>。1960年にソウルで死去。
===安賢生===
*安重根の長女・安賢生(日本名:大川安子)は、事件があったときは8歳だったが、すぐに出国した母と弟とは分かれて、父が懇意にしていたフランス人神父の保護を受けながら[[明洞聖堂]]の修女院で暮らし、5年後に帝政ロシア末期のウラジオストクに亡命して家族と合流。革命とシベリア出兵の混乱を避けて、中国・[[上海フランス租界]]に移り、フランス文学と美術を勉強した。25歳で黄一清と結婚。賢生は満鮮視察団には同行しなかったが、夫は同租界の電車会社の車掌監督で、その夫と共に1941年3月に博文寺を参拝して、弟と同様に伊藤博文を慰霊した<ref name="anko" />。この模様も[[京城日報]]によって報道されているが、彼女に関しては名指しでの殺害指令は出されていない。参拝した時期は日本軍による上海租界の占領の前である。
:帰国後はソウル在住。朝鮮戦争時に大邱に移り、大邱曉星女子大(大邱カトリック大学)で教職についた<ref>{{cite news|url=http://japanese.joins.com/article/563/127563.html?servcode=400&sectcode=400 |title=安重根義士の娘、曉星女子大の仏文学教授だった |publisher=中央日報 |date=2010-03-26 |accessdate=2014-02-24}}</ref>。1960年にソウルで死去。
 
== 記念碑 ==