「徒然草」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
16行目:
作品の名にもとられる書き出しの「つれづれ」(徒然)は「やるべき事がなくて、手持ち無沙汰なさま」<ref>「徒然」『[[日本国語大辞典]]』第二版(オンライン版)、2000‐2002年</ref>を意味する。「つれづれなり」と「よしなしごと」や、「書き付く」は先行する文学にも用いられている組合せであり、作品および自己を卑下する謙遜の辞である<ref>久保田淳校注、新日本古典文学大系『方丈記 徒然草』岩波書店、1989年</ref>。
 
室町幕府の[[九州探題]]である[[今川貞世]](了俊)は兼好の弟子の命松丸とも親交があり、兼好の没後、編さんに関わったとされる。
 
執筆後約百年間は注目されなかったようで、同時代の史料に『徒然草』への言及は伝わらないが、室町中期に僧・[[正徹]]が注目し、自ら書写した写本にこの作品が兼好法師のもので、兼好の略歴も合わせて記している。これが正徹の弟子の歌人や連歌師たちに波及し、[[応仁の乱]]の時代に生きた彼らは、「無常観の文学」という観点から『徒然草』に共感をよせた。[[江戸時代]]になると、版本が刊行され、は加藤磐斎の『徒然草抄』([[1661年]]、寛文1年)、[[北村季吟]]の『徒然草文段抄』([[1667年]]、寛文7年)といった注釈書も書かれていく。『徒然草』煮汁された教訓は町人などにも親しみやすく、身近な古典として愛読され、江戸期の文化に多大な影響を及ぼした。こうして『徒然草』は古典となり、文学上の位置が確定した。それだけに写本は江戸時代のものが多く、室町時代のものは非常に少ない。