「東禅寺事件」の版間の差分

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文久2年(1862年)5月29日、東禅寺警備の[[松本藩]]士[[伊藤軍兵衛]]がイギリス兵2人を斬殺した事件。
 
第一次東禅寺事件の後、オールコックは幕府による警護が期待できないとして、公使館を横浜に移した。しかし、オールコックが帰国中に代理公使となった[[ジョン・ニール]]は、再び東禅寺に公使館を戻し、[[大垣藩]]、[[岸和田藩]]、松本藩が警護にあたることとなった。東禅寺警備兵の一人、松本藩士・伊藤軍兵衛は、東禅寺警備により自藩が多くの出費を強いられていることや、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、公使を殺害し自藩の東禅寺警備の任を解こうと考えた。夜中にニールの寝室に侵入しようとしたが、警備のイギリス兵2人に発見され戦闘になった。伊藤はこれを倒したが自分も負傷し、番小屋に逃れて自刃した。
 
幕府は警備責任者を処罰し、松本藩主[[松平光則]]に差控を命じ、イギリスとの間に賠償金の支払い交渉を行ったがまとまらず、紛糾するうちに[[生麦事件]]が発生したために幕府は翌[[文久3年]]4月、生麦事件の賠償金とともに1万ポンドを支払うこととなり、事件は解決を見た。