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[[ファイル:Klaipeda Panorama.jpg|thumb|none|250px|メーメル時代の街並み(絵葉書)]]
第一次世界大戦後の[[1919年]]、ドイツ領であった当地は連合国の保護下に置かれた。<!--In [[1919]] Klaipeda was placed under the protectorate of the Entente States.--> [[ヴェルサイユ条約]]締結により、メーメル周辺の領土はドイツから[[割譲]]され{{仮リンク|国際管理地域|en|International zone}}として[[フランス]]による[[委任統治]]におかれ、フランス軍が駐留するが自治が行われていた。しかし、[[1923年]]にブドリュス大佐指揮下のリトアニア軍が侵攻し、フランスは自治権の保持を条件にメーメルを放棄した。ドイツ人の人口が多かったメーメルでは、1938年の選挙でナチ党が勝利し、[[1939年]][[3月22日]]、ドイツ第三帝国に合併された。これは[[オーストリア]]、[[ズデーテン|ズデーテンラント]]、[[チェコスロバキア]]の合併の後のものであった。(このとき、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー総統]]が旧市街のドラマ劇場の[[バルコニー]]に立ち演説した)
 
[[第二次世界大戦]]中、[[1944年]]の末頃から始まって[[1945年]]に到るまで、住民はソ連軍の侵攻から逃れるためにドイツ本土へ避難した。当地のドイツ人人口は激減した。クライペダは[[赤軍]]に1945年1月に占領され、[[リトアニア|リトアニア・ソビエト社会主義共和国]]領となった。残留していた多くの住民は[[シベリア]]へ送られ、それを免れた者もドイツへ追放された。