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=== 古代から近世まで ===
古代には[[伽耶]]の領域で、骨浦(コルポ)と呼ばれた。[[統一新羅]]時代の[[757年]]、骨浦県を改めて合浦県となり、義安郡の属県とされた。日本で「がっぽ」と読まれる合浦は、[[元寇]]における日本侵攻の基地として著名である。文永の役では[[12821274年]]には会原県(文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・[[忽敦]](クドゥン)を総司令官改称されして金州に属漢人の左副元帥・[[劉復亨]]と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする郡県蒙古・漢軍15,000~25,000人一つ主力軍都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が合浦(がぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した。その7年後の弘安の役では([[李氏朝鮮1281年]]時代の・弘安4年・至元18年)5月3日、東征都元帥・[[1408年忻都]]、会原県と義昌県義安県ヒンドゥ)・[[洪茶丘]]率いるモンゴル人、漢人などから改称成る蒙古・漢軍30,000人と征日本都元帥・金方慶率いる高麗軍約10,000人(実数9,960人の東路軍900艘統合され、高麗国王・[[昌原郡|昌原府忠烈王]]となっの閲兵を受け。以来、朝鮮時代を通じて馬山浦は昌原府半島一部であ合浦(がぽ)を出航した。
 
[[1282年]]には会原県と改称され、金州に属する郡県の一つとなった。[[李氏朝鮮]]時代の[[1408年]]、会原県と義昌県(義安県から改称)が統合され[[昌原郡|昌原府]]となった。以来、朝鮮時代を通じて馬山浦は昌原府の一部であった。
 
=== 近代 ===