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'''高 幹'''(こう かん、? - [[建安 (漢)|建安]]11年([[206年]]))は、[[中国]][[後漢]]時代末期の武将、または政治家。[[字]]は'''元才'''。[[兗州]]陳留郡圉県の人(『[[三国志]]』魏書[[高柔]]伝より)。高祖父は[[高固]]。曾祖父は[[高慎]]。祖父は[[高賜]]。父は[[高躬]]。従弟は高柔。伯父は[[袁紹]]。
 
== 正史の事跡 ==
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=== 反逆と最期 ===
その後しばらくは曹操に臣従したが、建安10年([[205年]])に曹操が[[幽州]]の[[烏桓]]討伐を開始すると反逆し、上党[[太守]]を捕虜として壺関を閉鎖した。彼は、河東郡の有力者である[[張琰]][[衛固]]など幅広い者の呼応を受けており、必ずしも突発的で無謀な挙兵ではなかった。但しこの時、高幹は袁尚が同盟の使者として遣わした[[牽招]]を拒否し殺そうとしており、袁氏とは別個の独立活動だった事が窺える。
 
『三国志』魏書[[荀イク|荀彧]]伝によれば、高幹の最終目的は鄴の襲撃だったようである。だが鍾繇・張既・[[杜畿]]らは、巧みな政略を駆使して高幹を撃破した。また鄴を守る[[荀衍]]や、別働隊の[[楽進]]・[[李典]]らも高幹を攻撃し、劣勢に追い込んだ。翌建安11年(206年)に、曹操が自ら大軍を率いて攻めて来ると、高幹は呼廚泉を頼ったが、この時は援軍を送ってもらえなかった。追い詰められた高幹は[[荊州]]の[[劉表]]を頼って落ち延びようとしたが、その途中で上洛[[都尉]][[王琰]]に殺害され、首級を曹操に献上された。
 
=== 人物像 ===
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== 参考文献 ==
*<span style="font-size:90%;">『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書24高柔伝 魏書1武帝紀 魏書6袁紹伝、付・袁譚袁尚伝 魏書7[[臧洪]]伝 魏書10荀彧伝 魏書13鍾繇伝 魏書15張既伝、[[賈逵]]伝 魏書16杜畿伝 魏書17楽進伝 魏書18李典伝 魏書21[[劉邵]]伝 魏書26牽招伝
*『[[後漢書]]』列伝64上袁紹伝上 列伝64下袁紹伝下、付・袁譚伝 列伝39仲長統伝 本紀9孝献帝紀
*『[[三国志演義|三国演義]]』</span>