「フリードリヒ・ラッツェル」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
36行目:
1871年、[[ミュンヘン工科大学]]に入学し、[[自然科学]]研究を継続する。ここで彼にとって地理学が、ますます大きな意義を持つようになっていた。1875年にラッツェルの調査旅行は終わり、ミュンヘン工科大学の地理学の私講師としての時代が始まる。その1年後には員外教授に就任。ミュンヘンでの活動中に『一般地理学に関する平易な24回の講義』(1881)、『アメリカ合衆国』(1878-1880, 2巻)を出版。これらの作品は、彼の「[[人類地理学]]」の始まりでもあった。
 
1877年に[[イギリス]]旅行で知り合ったマリー・ウィンガーズと結婚。2人の娘に恵まれる。1886年に[[ライプツィヒ大学]]に招聘され、[[フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン]]の転出を受けて地理学を受け持つ。没するまで18年近く当大学での活動となる。この間、歴史学者の[[ヴィルヘルム・ハインリヒ・ロッシャー]]や、物理学者ヴィルヘルム・オストヴァルト、心理学・哲学者の[[ヴィルヘルム・ヴント]]らを知り、影響を受ける。彼は、蔵書の拡大とゼミの活動の拡張に尽力した。学生からの人気により、彼の地理学の講義の聴講者の数は急速に増加した。研究活動と教育活動がまだ途上のうちに、体調を崩し1904年に死去。59歳であった。
 
ラッツェルは、人類地理学と政治地理学の祖と考えられている。彼は、人間の本質は地理的な環境の下にあるとし、ラッツェルの地理学は、地球や大地と人間との間の関係を見るのを主な課題としていた。門下としてはアフリカの民族を研究した[[レオ・フロベニウス]]がおり、「文化圏」説を継承・発展させた<ref>{{Cite book|和書|author=石田英一郎|year=1955|title=文化人類学ノート|publisher=河出文庫|pages=P.90}}</ref>。