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[[19世紀]]後半に入ると[[ムスリム]]地主に対するキリスト教徒の小作人による反乱が相次いで起こるようになる。[[1857年]]と[[1861年]]に隣国[[モンテネグロ]]の支援を受けた反乱が起こったほか、[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]の引き金となった[[1875年]]の{{仮リンク|ヘルツェゴヴィナ蜂起(1875年~1878年)|en|Herzegovina Uprising (1875-1878)|label=ヘルツェゴヴィナ蜂起}}は[[ボスニア]]へも飛び火した。その後、[[1878年]]の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]によって[[オーストリア・ハンガリー帝国]]による軍事占領が認められ、帝国の大蔵大臣(共通蔵相)の管轄下に置かれた。[[1882年]]には占領に対する蜂起も発生している。
 
[[1908年]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合|ボスニアと共にオーストリア・ハンガリー帝国に正式に併合された]]
 
== 関連項目 ==