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[[1819年]]12月、ボリバルはヌエバ・グラナダ共和国の大統領と軍指揮官になった。ボリバルは議会にヌエバ・グラナダとベネズエラを合併した新しい国家の創設を要請した。直ちに現在のベネズエラ・コロンビア・[[パナマ]]・[[エクアドル]]を合わせた地域がコロンビア共和国(後世呼ばれる[[大コロンビア]])として宣言された。しかし、ベネズエラと[[キト]]と[[グアヤキル]]は依然としてスペインの支配下であった。
 
[[1820年]]にボリバル軍とスペインの間で6ヵ月の休戦条約が結ばれるが、休戦期間終了後間もなく、ボリバルとスペイン軍の間で戦闘が起こる。 ベネズエラに侵攻したボリバルは[[1821年]]6月の{{仮リンク|カラボボの戦い (1821年)|en|Battle of Carabobo}}で勝利し、故郷カラカスを奪還する。ボリバルは、大コロンビアの憲法起草のための[[ククタの議会]]に招集され、初代コロンビア共和国の大統領として指名を受けた。そして国内が一応固まる様子をみせると、内政はそれまで副官を務めていたヌエバ・グラナダ人の副大統領[[フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル]]以下に任せて、ボリバルは王党派の牙城[[ペルー]]方面の解放に向かった。
 
[[1822年]]、ボリバルはエクアドル方面の攻略を本格化させる。ボリバルの率いる部隊が山間部からエクアドルに侵入し、ボリバルの部下であったベネズエラ人の[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]が太平洋側からエクアドルに進んだ。スクレの部隊は 1822年5月24日に{{仮リンク|ピチンチャの戦い|en|Battle of Pichincha}}で勝利を収め、翌日にはキトに入城を果たした。ボリバルもキトに合流し、ここにエクアドルの解放を果たした。また、ここでボリバルの「永遠の愛人」[[マヌエラ・サエンス]]と出会うことになった。