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 わかは、明治四十四年に創刊された雑誌「青鞜」の大正2年11月号に南アフリカの女性思想家オリブ・シュライネルの「若き愛と智の自覚」(三つの夢)の翻訳エッセイをのせた。
 これを期に青鞜社のメンバーの一人となった山田わかは、以降「青鞜」誌上へ、シュライネルの翻訳文を積極的に投稿した。その後もアメリカの社会学者ウォードの論文「女子の教育について」やスウェーデンの女流思想家エレン・ケイの「児童の世紀」といった翻訳文をのせる他「感想・評論」文ものせるようになった。
 「青鞜」誌上に多様な文活動をはじめた山田わかは、次第に新進の女流評論家として認識されるようになっていった。
 山田わかが女流評論家として世にあまねくしられる存在になったのは「東京朝日新聞」の「女性相談」欄、回答者となり大衆の心の奥底にふれた答えを返すことによるものであったことは、すでに記したとおりである。
 雑誌「青鞜」は山田わかの参加により、それまでの“文学誌的傾向”から次第に“女性解放誌的傾向”に移行してき、やがて日本最初の女性解放運動の基礎となる「新婦人協会」を誕生させることとなって行く。