「新庄藩」の版間の差分

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[[戸沢氏]]は[[鎌倉時代]]以来、出羽国に勢力を伸ばした名門であったが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には出羽[[角館]]に割拠する小大名となっていた。しかし、「鬼九郎」と称された勇将・[[戸沢盛安]]の代になると着々と勢威を拡大した。しかし盛安は[[小田原征伐]]に参陣した直後に病に倒れ、24歳の若さで死去。その盛安の子・[[戸沢政盛]]は[[関ヶ原の戦い]]で東軍に属したため、存続を許されて所領を[[常陸松岡藩]]へ移封されていた。そして[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])、[[山形藩]]主であった[[最上義俊]]が家中騒動を理由に改易された後を受けて、6万石で入部し、新庄藩を立藩した。当初、[[最上氏]]の家臣・鮭延氏の居城であった[[真室城]]を居城としていたが、[[新庄城]]を築城してここを本拠とした。政盛は藩政の基礎を固めるために[[新田]]開発や鉱山開発、市場改革などを推し進めた。その結果、[[寛永]]2年([[1625年]])には、領内の実禄が6万石から6万8200石となっていた。
 
[[慶安]]3年([[1650年]])に政盛が死去し、その跡を[[戸沢正誠]]が継いだ。正誠の時代は60年の長きにわたったために藩政が安定化し、城下町の完成、家臣の新規召し抱え、領内総検地、貢租体系の改正(天和の盛付)、地方知行から蔵米制への移行寛文8年([[寛文1668年]]8年)といった改革も多数行なわれて、新庄藩は最盛期を迎えた。米収入では[[元禄]]13年([[1700年]])には13万200余俵、人口では元禄16年([[1703年]])に5万8,000余人に達する。しかし正誠の治世末期から放漫財政のために財政が悪化。第3代藩主[[戸沢正庸]]はこのような事態を打開するために厳しい倹約令(生徳の条々)を敷き、さらに地方整備などの藩政改革に取り組んだが、あまり効果は見られなかった。そして[[宝暦]]・[[天明]]・[[天保]]とこの地方に飢饉が襲いかかるに及んで年貢収納高は激減し、藩財政は破綻寸前となった。この頃の新庄藩の衰退を示すものとして、負債だけでも9万4000両(藩の3、4年分の収入)、人口では最盛期に6万近くを数えたが、この頃では4万5000人にまで落ち込んでいた。
 
このような中で歴代藩主、特に第5代藩主[[戸沢正諶]]や第10代藩主[[戸沢正令]]は財政再建を主とした改革を目指したが、前者は改革に効果が見られず、後者は家督相続から4年にして急死するという不幸から、それぞれ失敗に終わった。しかし正令時代の家老・[[吉高勘解由]]が正令の遺志を引き継ぎ、緊縮財政・税制改革・養蚕奨励・新田開発などを主とした嘉永の改革を行なった結果、藩財政は再建されることとなった。