「三浦盛時」の版間の差分

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宝治合戦で三浦一族が滅びると、三浦介に任命され、三浦宗家の家督を継承した。盛時は三浦介、三浦家棟梁としての扱いを受ける一方で、将軍の鶴岡八幡宮参詣や[[放生会]]などでは随兵の役目しか回されず、宝治合戦で滅びる前、三浦氏がまだ隆盛していた頃の厚遇を受けることはなかった。三浦介となり、三浦宗家を継承したが、待遇そのものはあくまで佐原氏時代のものが踏襲されたという<ref>『北条氏系譜人名辞典』三浦盛時の項</ref>。
 
[[弘長]]3年([[1263年]])に時頼が没すると、兄弟の蘆名光盛・新宮会津時連と揃って出家し、浄蓮と号した。
 
== 脚注 ==