「アルベルト・ツィーグラー (パイロット)」の版間の差分

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'''アルベルト・ツィーグラー'''('''Albert Ziegler''', [[1888年]][[4月9日]] - [[1946年]])は現在のルーマニアの[[コドレア]](ドイツ語名ツァイデン:Zeiden(当時、[[オーストリア=ハンガリー帝国]][[コドレア|ツァイデン]](現[[ルーマニア]])に生まれた航空のパイオニアである。1913年に自作の航空機で、[[トランシルヴァニア地方での最・ザクセン人]]として初の飛行を行った。
 
農家に生まれた。子供時代から飛行に憧れ、2枚の布で翼をつくり屋根から飛んだといわれている。小学校を出た後、ツァイデンで機械を販売する会社に徒弟として働き、後に地中心市[[ブラショヴ|クローンシュタット]]に移り、商工博覧会にエンジンを組み立てて出品し、賞を受賞した。
 
知識を求め、故郷をて外国を放浪する生活を始め、[[スイス]]でエンジンや車の雑誌の会社で働き、[[パリ]]には2年滞在した。1908年には、[[ロンドン]]に渡り、[[イギリス]]各地を旅した。その後[[ベルリン]][[ウィーン]]に暮らした。ベルリンに航空研究所Internationalen (Internationales Luftschifffahrtshaus ) をつくり、1912年に[[ジーメンス]]・シュカートの50馬力のエンジンと工具を購入し、 Pfeilflugzeug と名つけた飛行機を製作し、1913年7月飛行に成功した。1913年から故郷に戻り展示飛行を行い、その収入でさらに航空機の開発を続けることを計画した。
 
最初の飛行は1913年10月1319にツであった。{{仮リンク|ギンバヴ|label=ヴァイデンで行われ、多くバッハ|de|Ghimbav}}観衆の上を飛行場から離陸し、故郷ツァイデン上空を飛んだ。2度目の飛行では、さらに高く飛び、クロンシュタット上空を飛び周辺の山々、そしてついには故郷ツァイデンの山を越えた。着陸後賞金を受け取っ、人々から熱狂邸に迎えられた。この飛行の模様は新聞''、[[ドイツ語]]の『Kronstädter Zeitung』、[[ルーマニア語]]の『[[:en:Gazeta de Transilvania|Gazeta de Transilvaniei''と'']]』、[[ハンガリー語]]の『Brasso Naplo''』各紙で報じられた。500mの高度で4分間の飛行をおこなったが75リットルの燃料タンクは500kmの飛行ができた。12mの翼幅を持ち全長は9.5mであった。機体重量は650kgでさらに400kgの積載が可能で、パイロットの他に2人をのせることができた。
 
ツィーグラーはさらに[[トランシルヴァニア]]の各都市で展示飛行を行うつもりであったが、[[第一次世界大戦]]の開始で終わることになった。機体は軍に買い上げられ、大戦中は[[オーストリア=ハンガリー帝国]]航空飛行機工場の飛行教官として働いた。
 
第二次世界大戦後、[[ハレ (ザーレ)|ハレ・アン・デア・ザーレ]]で没した。
 
== 参考文献 ==
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{{デフォルトソート:ついいくらあ あるへると}}
[[Category:航空の先駆者]]
<!--[[Category:ルーマニアの技術者]]
[[Category:ルーマニアの発明家]]ツィーグラーはルーマニア人(民族)ではない。当時のオーストリア=ハンガリー領に生まれたトランシルヴァニア・ザクセン人。トランシルヴァニアが現在ルーマニア領だからか?-->
[[Category:ルーマニアの発明家]]
[[Category:トランシルヴァニアの人物]]
[[Category:1888年生]]