「アルベルト・ツィーグラー (パイロット)」の版間の差分

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農家に生まれた。子供時代から飛行に憧れ、2枚の布で翼をつくり屋根から飛んだといわれている。小学校を出た後、ツァイデンで機械を販売する会社に徒弟として働き、後に地域の中心都市[[ブラショヴ|クローンシュタット]]に移り、商工博覧会にエンジンを組み立てて出品し、賞を受賞した。
 
知識を求め、故郷を出て外国を放浪する生活を始め、[[スイス]]でエンジンや車の雑誌の会社で働き、[[パリ]]には2年滞在した。1908年には、[[ロンドン]]に渡り、[[イギリス]]各地を旅した。その後[[ベルリン]]と[[ウィーン]]に暮らした。ベルリンに航空研究所 (Internationales Luftschifffahrtshaus) をつくり、1912年に[[{{仮リンク|ジーメンス・シュカート・ヴェルケ|label=ジーメンス]]・シュカート|de|Siemens-Schuckertwerke}}の50馬力のエンジンと工具を購入し、 Pfeilflugzeug と名つけた飛行機を製作し、1913年7月飛行に成功した。1913年から故郷に戻り展示飛行を行い、その収入でさらに航空機の開発を続けることを計画した。
 
最初の飛行は1913年10月19日であった。{{仮リンク|ギンバヴ|label=ヴァイデンバッハ|de|Ghimbav}}の飛行場から離陸し、故郷ツァイデン上空を飛んだ。2度目の飛行では、さらに高く飛び、クローンシュタット、周辺の山々、そしてついには故郷ツァイデンの山を越えた。着陸後、人々から熱狂的に迎えられた。この飛行の模様は地元新聞、[[ドイツ語]]の『Kronstädter Zeitung』、[[ルーマニア語]]の『[[:en:Gazeta de Transilvania|Gazeta de Transilvaniei]]』、[[ハンガリー語]]の『Brasso Naplo』各紙で報じられた。500mの高度で4分間の飛行をおこなったが、75リットルの燃料タンクは500kmの飛行ができた。12mの翼幅を持ち全長は9.5mであった。機体重量は650kgでさらに400kgの積載が可能で、パイロットの他に2人をのせることができた。