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== 人物 ==
[[伊勢国]]の[[安濃津|津]](現、[[三重県]][[津市]])の[[医者]]の家に生まれ、[[京都]]に出て[[医学]]を学ぶ傍ら、[[玉木正英]](葦斎)から[[垂加神道]]を学ぶ。
津に帰った後、[[私塾|家塾]]「洞津谷川塾」を開いて門人を指導した。また、[[有栖川宮職仁親王]]から[[和歌]]を学び、医業の傍らに精を出す一方で[[独学]]で[[国学]]を研究した。
 
士清が[[国語学]]に残した功績は大きく、い。その著作『日本書紀通証』第1巻に収録した「和語通音」は日本初の[[動詞]]活用表であり、また、『和訓栞』は'''日本初の五十音順に配列された[[国語辞典]]'''であった。ただこの辞典は士清の存命中に全巻を刊行できず、士清の死後、遺族の手によって引き継がれ[[1887年]]([[明治]]20年)に全巻刊行された。
 
反面、士清の古典研究は、在来の学説を集成したもので、独創性に乏しいという評価がある。士清と交流があった[[本居宣長]]も「和語通音」は絶賛しているが、士清の古典解釈については垂加神道に基づくこじつけが多く非学問的だと批判している。