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|casualties2=戦死 5,000<br>撃沈・拿捕 200隻
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'''アクティウムの海戦'''(アクティウムのかいせん、ラテン語:''Actiaca pugna'')は、[[紀元前31年]]9月に[[オクタウィアヌス]]支持派と[[プトレマイオス朝]]及び[[マルクス・アントニウス]]支持派連合軍の間で行われた海戦である。海戦の名は戦場が[[イオニア海]]の[[アクティウム]](現[[ギリシャ共和国]][[プンタ]])沖であったことによる。
 
== 概略 ==
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兵員の数ではアントニウス・クレオパトラ連合軍が上回っていたが、両軍が少し交戦した時点でクレオパトラの艦隊が戦線を離脱し、アントニウスはこれを追って撤退したため、[[指揮官]]を失ったアントニウス軍は陸海ともに総崩れとなって潰走、オクタウィアヌスの勝利となった。
 
アクティウム海戦の敗北によって、アントニウスに味方していた[[古代イスラエル|ユダヤ]]王[[ヘロデ大王|ヘロデ]]らも離反してオクタウィアヌス側へ転向した。アントニウスはエジプトに帰還するクレオパトラの船を追った。オクタウィアヌス軍から、部下を置き去りにし女を追って戦場を後にしたと嘲笑されたアントニウスは、エジプトの首都[[アレクサンドリア]]へと逃亡した。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃した。クレオパトラ自殺は誤報であったので、アントニウスはクレオパトラの命令で彼女のもとに連れて行かれ、彼女の腕のなかで息絶えたとされる。クレオパトラもオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺した。[[アスプコブラ|コブラ]]に身体を噛ませての死だったと伝わっている。
 
オクタウィアヌスは、これにより[[内乱の一世紀]]に終止符を打ち、[[地中海世界]]の統一も果たして、みずからは[[プリンケプス]]として[[帝政ローマ|帝政]]への道をひらいた。