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'''曹 洪'''(そう こう、? - [[232年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の武将。[[字]]は'''子廉'''。[[曹操]]の従弟。[[衛将軍]][[曹瑜]]の族子。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志「諸夏侯曹伝」に伝がある
 
曹操の養祖父である[[宦官]][[曹騰]]の血族である、沛国譙県の[[曹氏]]の一族の1人である。曹騰や[[尚書令]][[曹鼎]]の甥に当たる<ref><span style="font-size:90%;">『[[後漢書]]』「党錮列伝」・『三国志』「曹洪伝」が引く『[[魏書]]』より。</ref>。
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曹操が滎陽で[[徐栄]]に大敗し敵軍に追撃された。この時、曹洪は馬を失った曹操に自分の馬を譲ろうとした<ref>曹洪は[[白鵠]]という名馬に乗っていたという(『拾遺記』・『太平御覧』)。</ref>。曹操は最初は辞退したが、曹洪は「天下に洪なかるべきも、公なかるべからず」と直言して曹操に馬を譲り、自分は徒歩で曹操に付き従った。やがて{{lang|zh|汴}}水に達すると、水嵩が深く渡るのが困難な状況であったため、曹洪は岸辺を巡り歩き船を探し出し、曹操と共に船に乗って、汴水を渡って譙まで逃げた<ref>『[[三国志演義]]』では、曹洪が曹操を担いで汴水を渡った事にされている。</ref>。
 
この敗戦後、曹操は軍の再建のために[[揚州]]に赴き兵を募った(「武帝紀」)。この時、曹洪は親交のある揚州[[刺史]][[陳温]]の協力を得て私兵千余人を連れ、[[廬江]]で精鋭2000、[[丹陽]]で数1000の兵を手に入れ、龍亢で曹操と合流している。
 
[[194年]]、[[兗州]]で[[張バク|張邈]]が[[呂布]]を引き入れて反乱を起こした。当時、大飢饉が起きていたが、曹洪は本軍に先行して東平・范を占拠し、本軍に食料を補給した。曹操が呂布を敗走させた後は、反乱に与しなかった東阿に拠って、済陰・山陽・中牟・陽武・京・密といった合計十県以上を攻撃し、全て攻め落とした。この前後の功により、鷹揚校尉に任じられ、さらに揚武中郎将に昇進した。
 
[[196年]]1月、曹操は長安から脱出してきた[[献帝 (漢)|献帝]]を迎え入れようとし、曹洪が兵を率いて出迎えの任に当たった。しかし、[[董承]]が[[袁術]]の部将[[萇奴]]と共に要害を守備し、曹洪の進軍を阻んだため果たせなかった(「武帝紀」)。
 
後に、董承と和解した曹操が同年9月に[[許都]]に献帝を迎えると(「武帝紀」)、曹洪は諫義大夫に任命された。
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曹操が[[司空]]に任命されると、世間に模範を示すために、毎年の納税の時に本籍の県令に自分の資産を調べさせる事にした。譙県の県令が、曹操の資産は曹洪の資産と同等であるという報告をすると、曹操は「わしの財産が子廉の財産と同じ筈はない」と言ったという(『魏略』)。
 
[[200年]]、[[袁紹]]との[[官渡の戦い]]では兵糧などの後方補給などで曹操を常に補佐した。[[徐晃]]と共に㶏<ref>本来の文字は「&#27701;」+「&#38544;」</ref>彊の賊の[[祝臂]]を攻撃し、これを破った(「徐晃伝」)。
 
曹操が烏巣を攻撃した時にその留守を懸命に守り、袁紹の武将[[張コウ|張郃]]・[[高覧]]らの攻撃を防御した。張郃らが降伏を申し入れてくるとその意図を疑ったが、[[荀攸]]の助言によりこれを受け入れた(「荀攸伝」)。
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曹操が[[荊州]]の[[劉表]]を討って、西平に進むと曹洪は別軍を率い、舞陽・陰葉・堵陽・博望の各地で劉表の部将を破った<ref>「武帝紀」によると、[[203年]]8月に曹操が西平に侵攻している。</ref>。この功により、厲鋒将軍に昇進、国明亭侯に封じられた。続いて都護将軍に任命された。
 
曹洪は都護になると、[[阮瑀]]([[阮籍]]の父)を書記に迎えようと試みたが、阮瑀には辞退されている(「[[王粲]]伝」附「阮瑀伝」)。
 
曹操の太子には[[曹丕]]がなっていた。ある時、曹丕は曹洪から100匹の絹を借りようとしたが、拒絶されたという(『魏略』)。
 
[[217年]]冬10月、[[劉備]]の部下[[張飛]]・[[馬超]]・[[呉蘭]]らが下弁に攻め込んでくると、曹操は曹洪に命じてこれを防がせた。曹洪のために曹操は参軍として[[おい|族子]]の[[曹休]]・[[辛ピ|辛{{lang|zh|毗}}]]を付け、さらに曹操は曹休に対して、実質的な指揮官は曹休だといい含めた(「辛毗伝」・「曹休伝」)。他に[[張既]]・[[楊阜]]らを率いていた(「張既伝」・「楊阜伝」)。曹洪は、下弁の呉蘭と固山の張飛のどちらを討つかで迷ったが、曹休の進言に従い呉蘭を打ち破り、張飛を敗走させた<ref>「曹休伝」。「武帝紀」では、[[218年]]、呉蘭を破り、敵将の[[任夔]]を斬ったとあり、3月には張飛と馬超は[[漢中]]に撤退し、また[[陰平]]の[[テイ (民族)|氐]]族の酋長の[[強端]]が、呉蘭を殺しその首を送ってきたという。</ref>。
 
曹洪は大宴会を催し、薄着の歌姫に舞楽を行わせた。しかし楊阜は大勢の席上で女性の肉体を剥き出しにするのは不道徳だとして、曹洪を責めた。すると曹洪はすぐにこの舞楽を止めさせた(「楊阜伝」)。曹操は曹洪の財貨と女色を好む性格を熟知しており、前漢の高祖([[劉邦]])に比して、曹洪とその参謀であった辛毗、さらに曹休に向かって慎重に警告している(「辛毗伝」)。
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明帝の時代、乳母の当が[[洛陽]]において法に違反し、[[大理]]正の[[司馬芝]]に処刑されそうになった時、卞太皇太后がこれを救おうとしたが、司馬芝は処罰を覚悟で法を執行し、当は処刑されてしまった(「司馬芝伝」)。
 
[[232年]]、死去。享年は不明である。恭侯と諡され、子の[[曹馥]]が後を継いだ。曹洪の子の[[曹震]]が曹操の時代に列侯に封じられており、族父の曹瑜は衛将軍になっている。また、娘は[[荀粲]]に嫁いでいる。
 
==三国志演義==