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傅幹はその後、元耿鄙の部下であった[[馬騰]]に仕えた。[[建安 (漢)|建安]]7年([[202年]])、馬騰が[[冀州]]の[[袁尚]]や[[并州]]の[[高幹]]と手を結んで[[曹操]]に対抗しようとすると、
 
『徳に順じる者は盛え、徳に逆らう者は滅ぶ』と言います。曹公は天子を奉じて暴乱を除き、法令は明らかで上下が団結しています。これは順徳の者であることを現しております。袁氏は強大な家系にたより、朝廷に背き、胡虜([[匈奴]])を使って[[原]]を侵略させています。これは逆徳の者である証拠です。将軍は今、朝廷に仕えながら袁氏にも通じようとしています。元々将軍は中原の成り行きを見守るつもりだったはずですが、今後、曹氏と袁氏の勝敗が決したら、朝廷は将軍の罪を責める詔を発し、真っ先に将軍を誅滅するでしょう。」
 
馬騰が恐れ始めると「智者は禍を福に転じるものです。今、曹公は袁氏と戦い、高幹・[[郭援]]が河東を攻撃しています。曹公に万全の計があっても、河東の危機を脱することは難しいでしょう。将軍がこの機に高幹等を討てば、袁氏の片腕を破ることになり、曹公の危機を除くことができます。曹公必ず将軍に感謝し、将軍の功名は比類なものになるでしょう。」
 
傅幹は諌めて曹操への敵対を思い留まらせた。これにより馬騰は、子の[[馬超]]や[[ホウ徳|龐徳]]を曹操の援軍に派遣し、高幹・[[郭援]]の軍を撃破した。
 
その後、傅幹は曹操配下に転じた。建安17年([[212年]])、[[劉備]]が[[益州]]の[[劉璋]]を攻撃すると、曹操配下の[[丞相]]掾である趙戩が「劉備に平定は無理だ」と主張したが、徴士となっていた傅幹は「劉備の器量に加え、[[諸葛亮]]・[[関羽]]・[[張飛]]の3人の補佐があるため、平定に成功する」と反論した。そして事実、傅幹の言う通りとなった。
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建安19年([[214年]])秋7月、曹操が[[孫権]]を討伐しようとすると、参軍となっていた傅幹は、徳をもって懐柔するのが良いとして征伐を諌めたが、聞き入れられなかった。結局この征伐は、捗捗しい戦果を残せずに終わっている。
 
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書武帝紀によれば、傅幹の官位は丞相倉曹属で終わったとあるが、『[[後漢書]]』傅燮伝によれば[[扶風県|扶風]]太守まで至ったとある。
 
小説『[[三国志演義]]』でも、史実同様に曹操の南征を諌める場面で登場している。しかしここでは史実と異なり、曹操はこの諫言を受け入れている。