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'''山田 美妙'''(やまだ びみょう、[[1868年]][[8月25日]]([[慶応]]4年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[1910年]]([[明治]]43年)[[10月24日]])は、日本の[[小説家]]・[[詩人]]・[[評論家]]。[[言文一致]]体および[[新体詩]]運動の先駆者として知られる。二世曲亭主人、美妙斎、美妙子、樵耕蛙船、飛影などの号も用いた。
 
SF・ミステリ作家の[[加納一朗]]は孫。
 
== 略歴・人物 ==
本名は、山田武太郎。[[江戸]]の神田柳町(現在の[[東京都]][[千代田区]][[神田須田町]]二丁目)に旧[[南部藩]]士[[山田吉雄]]の長男として生まれる。3歳のとき父が地方に赴任し、母よし、その養母海保ますと[[芝 (東京都港区)|芝]]神明前([[浜松町]])に、桶屋を家業として住む。[[1879年]](明治12年)東京府第二中学(1881年に府第一中と統合し[[東京都立日比谷高等学校|東京府中学]])入学、幼友達の[[尾崎紅葉]]と再会。東京府中学を経て、1884年(明治17年)[[第一高等学校 (旧制)|大学予備門]]入学。
 
予備門在学中の[[1885年]](明治18年)に友人の尾崎紅葉、[[石橋思案]]、[[尾崎紅葉]]、[[丸岡九華]]らと文学結社である[[硯友社]]を結成し、雑誌『[[我楽多文庫]]』を編集・刊行し、第1、2集に[[曲亭馬琴]]風の処女作「竪琴草紙」を発表。1886年から同誌に発表連載した「嘲戒小説天狗」は、言文一致体で書かれた[[小説]]として先駆的なものであった。1886また1982の『新体詩抄』以来の[[新体詩]]への意気込みで、縁山散史こと尾崎紅葉、延春亭主人こと丸岡九華ととも『[[新体詞選]]』を刊行。同年第一高等中学校(大学予備門改称)退学。1887年(明治20年)に[[読売新聞]]に「武蔵野」を連載し、最初の言文一致体の新聞小説となる。同年婦人雑誌『以良都女』(成美社)創刊。1888年には短篇集『夏木立』を刊行、婦人雑誌『以良都女』、小説雑誌『都の花』(金港堂)を主宰、20歳にして[[坪内逍遥]]に匹敵する名声を得た。硯友社とは疎遠になり自然脱退。1889年に[[徳富蘇峰]]の依頼を受け『蝴蝶』を執筆し『[[国民之友]]』に発表した。『蝴蝶』は、挿絵に初めて裸体が登場した作品で([[渡辺省亭]]筆)、発売禁止となるなど物議をかもした<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2927_9212.html 「婦人と文学」宮本百合子]</ref>。
 
1889年「日本俗語文法論」を『[[国民之友]]』に連載した。1890年[[改進党|改進新聞社]]入社。1894年頃に浅草の茶店の女に子を産ませていたが籍は入れないなどの性行があり、作品の題材を実体験で得るためと称したことなどが、『[[万朝報]]』、『[[毎日新聞]]』などで指弾され、坪内逍遥も『[[早稲田文学]]』誌上で批判される。1895年に発表した「阿千代」は久しぶりに好評だったがその後弟子の女流作家[[田澤稲舟]]と結婚。1896年稲舟との合作「峯の残月」を『[[文芸倶楽部]]』に発表。稲舟は美妙の祖母と不仲のため、3月に結婚を解消して[[鶴岡]]に帰郷。4月に西戸カネと結婚。稲舟が自殺未遂の後9月に病死したが、新聞に自殺と報じられて美妙は非難を蒙った。紅葉ともその後疎遠とな、美妙が『都の花』の主筆に迎えられてからは、硯友社と関係を絶つようになって人気も落ちていった。また1894年頃に浅草の茶店の女に子を産ませていたが籍は入れないなどの性行があり、作品の題材を実体験で得るためと称したことなどが、『[[万朝報]]』、『[[毎日新聞]]』などで指弾され、坪内逍遥も『[[早稲田文学]]』誌上で批判、文壇から遠ざけられる要因とようになった。<ref>[[岡野他家夫]]「醜聞に葬られた美妙斎 - 明治文学五題(二)」(『明治への視点 『明治文學全集』月報より』筑摩書房 2013年)</ref>晩年は病と貧しさに悩まされるさびしいものであったという。<ref>[[内田魯庵]]『[[思い出す人々]]』に、死の床で、見舞った友人が持ってきたシュークリームが黴の生えたまま置かれていたと記されている。</ref>
 
1897年「魔界天女」を『やまと琴』に連載。その後[[フィリピン独立革命]]にシンパシーを抱き、独立の志士[[エミリオ・アギナルド]]の伝記『あぎなるど』や、運動の挿話『羽ぬけ鳥』なども著した([[フィリピン独立革命#日本との関係|フィリピン独立革命と日本との関係]]も参照)。しかし晩年は病と貧しさに悩まされるさびしいものであったという。<ref>[[内田魯庵]]『[[思い出す人々]]』に、死の床で、見舞った友人が持ってきたシュークリームが黴の生えたまま置かれていたと記されている。</ref>
『[[新体詞選]]』は、『[[新体詩抄]]』の二番煎じのように見られ識者の評価は高くない。しかし、所収『[[戦景大和魂]]』八章から三章を選んで[[軍歌]]『[[敵は幾万]]』が歌われるようになった。
 
『[[新体詞選]]』は、『[[新体詩抄]]』の二番煎じのように見られ識者の評価は高くない。しかし、所収『[[戦景大和魂]]』8章から3章を選んで[[小山作之助]]が曲を付け、[[軍歌]]『[[敵は幾万]]』がとして歌われるようになった。
美妙の言文一致の作品は、『武蔵野』『蝴蝶』のような時代小説が多かったので、地の文が「です・ます」「である」調であるのに、会話文は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]を題材にした『武蔵野』では「足利ごろの俗語」奥浄瑠璃を用いるなど、古めかしい言葉遣いであった。その意味では、いささか奇をてらったようにも見え、さらに『蝴蝶』が掲載されたときの挿絵に、主人公胡蝶の裸体画が初めて用いられたので、その意味での注目を集めてしまったことも、彼の作品を文学としてきちんと評価させなかったような趣があった。それが、美妙を文学の第一線からしりぞかせ、辞書の編纂をして糊口をしのぐような生活に追いこんだ一因でもある。晩年には、[[フィリピン独立革命]]にシンパシーを抱き、独立の志士[[エミリオ・アギナルド]]の伝記『あぎなるど』や、運動の挿話『羽ぬけ鳥』なども著した([[フィリピン独立革命#日本との関係|フィリピン独立革命と日本との関係]]も参照)。
 
美妙の言文一致の作品は、『武蔵野』『蝴蝶』のような時代小説が多かったので、地の文が「です・ます」「である」調であるのに、会話文は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]を題材にした『武蔵野』では「足利ごろの俗語」奥浄瑠璃を用いるなど、古めかしい言葉遣いであった。その意味では、いささか奇をてらったようにも見え、さらに『蝴蝶』が掲載されたときの挿絵に、主人公胡蝶の裸体画が初めて用いられたので、その意味での注目を集めてしまったことも、彼の作品を文学としてきちんと評価させなかったような趣があった。それが、美妙を文学の第一線からしりぞかせ、辞書の編纂をして糊口をしのぐような生活に追いこんだ一因でもある。晩年には、[[フィリピン独立革命]]にシンパシーを抱き、独立の志士[[エミリオ・アギナルド]]の伝記『あぎなるど』や、運動の挿話『羽ぬけ鳥』なども著した([[フィリピン独立革命#日本との関係|フィリピン独立革命と日本との関係]]も参照)
また、美妙は[[国語辞典]]の編纂者としても著名で、「日本大辞書」([[1892年]])と「大辞典」([[1912年]])を編んだ。「日本大辞書」は美妙が口述し、大川発が速記したもの。日本の辞典で初めて語釈が口語体で書かれた。もちろん、これらは、口語形、口頭語形、笑い声、泣き声なども豊富に立項していた(「あはは」「いひひ」「おほほ」「にこにこ」「うんにゃ」など)。また「日本大辞書」は[[共通語]]の[[アクセント]]が付記された辞書としては近代において最古のものとされ、日本語のアクセント研究の黎明を築いた。
 
また、美妙は[[国語辞典]]の編纂者としても著名で、日本大辞書([[1892年]])と大辞典青木嵩山堂、[[1912年]])を編んだ。「日本大辞書」は美妙が口述し、大川発が速記したもの。日本の辞典で初めて語釈が口語体で書かれた。もちろん、これらは、口語形、口頭語形、笑い声、泣き声なども豊富に立項していた(「あはは」「いひひ」「おほほ」「にこにこ」「うんにゃ」など)。また「日本大辞書」は[[共通語]]の[[アクセント]]が付記された辞書としては近代において最古のものとされ、日本語のアクセント研究の黎明を築いた。
 
美妙の小説には導入部のあと主人公が死んで終わる作品、[[講談本]]などの場面を継ぎはぎした作品、教訓のみが目に付く作品も多い。小説・詩ともやや内容に乏しい。しかし先駆者として、文学の形式を発展させた人物である。
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*『夏木立』金港堂 1888年(短編集)
*『白玉蘭』嵩山堂 1891年
*『新調韻文 青年唱歌集』博文館 1891年
*『いちご姫』金港堂 1892年
*『闇黒世界まにらの夢』三國書房 1899年
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*『政治小説桃いろぎぬ』嵩山堂 1902年
*『あぎなるど』内外出版協會 1902年
*『新体詩歌作法』青木嵩山堂 1902年
*『地の涙』内外出版協會 1903年(翻訳)
*『小説・羽ぬけ鳥』日出國 1903年
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== 参考文献 ==
*『[[明治文学全集|明治文學全集]] 6 明治政治小説集(2)』[[柳田泉]]編 筑摩書房 1967年
*『明治文學全集 60 明治詩人集(1)』[[矢野峰人]]編 筑摩書房 1972年
*『日本の文学 77 名作集(一)』中央公論社 1970年([[瀬沼茂樹]]「解説」、年譜)
*『日本の辞書の歩み』[[1996年]] 辞典協会