「安帝 (漢)」の版間の差分

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永初2年から元初5年までの西暦との対照の誤りを下記頁等を参照に正した。
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|生年 =[[94年]]
|没年 =[[125年]]
|父 =清河孝王・[[劉慶]]
|母 =左姫
|皇后 =
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同年の9月には西域で反乱が勃発し、12月には実父の清河王が死去した。
 
[[永初 (漢)|永初]]([[107年]])元年、2月には清河国が分割される一方、9月には鄧氏の母の陰氏に新野君が与えられた。この月に[[西域都護]]が廃止された。秋9月、太尉の[[徐防]]、司空の[[尹勤]]が免職され、[[張禹]][[周章]]が後任とされるが、11月には周章が帝位の廃立を目論んだとして誅殺された。この間、10月には[[倭]]国からの使者が来訪している。12月、司空の後任として[[張敏]]が迎えられた。
 
=== 天災と反乱 ===
永初2年([[108年]])春正月、鄧隲が冀西において種[[羌]]に敗れた。冬10月には征西校尉の[[任尚]]が平襄において先零羌に敗れた。11月には鄧隲は[[大将軍]]に任命され、任尚を隴右に残し京師に帰還した。先零羌の反乱は収まらず、三輔や益州が被害にあった。
 
永初3年([[109年]])春正月、安帝は元服した。先零羌討伐に騎都尉の[[任仁]]を派遣したが、戦況は不利であった。[[高句麗]]の使者が来た。この頃の後漢帝国には飢饉が蔓延していたが、3月にはとうとう京師にまでそれが及んだ。司徒の[[魯恭]]が免職となり、4月に[[夏勤]]が後任となった。安帝の実家の清河王家の継嗣が死去したため、5月に楽安王家から後継を迎えた。秋7月には海賊の被害が出て、侍御史の[[龐雄]]に州郡の兵士を率いさせこれを討伐した。9月には[[烏桓]]と[[鮮卑]]が反乱し、五原郡に被害がでた。冬10月には[[匈奴]]の南[[単于]]が反乱を起こし、中郎将の[[耿种]]を派遣し、11月には車騎将軍の[[何熙]]をも遣わした。12月には引き続く天災により、幷州と涼州ではひどい飢饉となっていた。
 
永初4年([[110年]])春正月、前年の海賊の被害が拡大していたため、御史中丞の[[王宗]]と青州刺史の[[法雄]]に討伐させ、これを破った。また、[[度遼将軍]]の[[梁慬]]と遼東太守の[[耿夔]]に命じて匈奴の南単于を攻撃させた。2月には初めて長安に雍二営都尉が設置された。3月に匈奴の南単于は降伏したが、先零羌は引き続き猛威を振るっていた。秋7月には騎都尉の任仁は獄に下され死去している。この間、[[劉珍]]と[[五経博士]]に命じて東観の経典を校定させた。冬10月には新野君とされていた陰氏が死去した。
 
永初5年([[111年]])春正月、日食が起きた。太尉の張禹が免職となり、李修が後任となった。先零羌の活動は続き、漢人にもこれに与する者が現れ始めた。
 
永初6年([[112年]])、天候の不順は続き、夏4月に司空の張敏が免職となり、[[劉愷]]が後任となった。各地で反乱が続き、冬11月には[[護烏桓校尉]]の呉祉が投獄され死去しているが、先零羌の頭目が死去するなど、弱体化の兆しが見え始めた。永初7年([[113年]])秋には、護羌校尉の[[侯覇]]と騎都尉の[[馬賢]]が先零羌を破っている。
 
元号が永初から[[元初]]に改められたが、天候の不順は続いた。先零羌も勢力を盛り返し、9月には武都と漢中に拠って隴道を断ち、涼州刺史の皮陽と狄道で戦った。この月に太尉の[[李修]]が免職となり、[[司馬苞]]がそれに代わった。
 
元初2年([[115年]])3月、先零羌が益州に侵攻し、中郎将の[[尹就]]がこれを討伐した。夏4月、貴人であった閻氏(えんし)を皇后とした。6月には太尉の司馬苞が死去し、秋7月に[[馬英]]が後任となった。この間、蝗や地震の被害が京師を襲った。冬10月に中郎将の任尚に乱れていた三輔に駐屯させた。右扶風の[[仲光]]、安定太守の[[杜恢]]、京兆虎牙都尉の[[耿溥]]が先零羌と奚城において戦ったが大敗した。左馮翊の[[司馬鈞]]らが投獄され自殺した。12月には武陵蛮が反乱を起こした。司徒の夏勤が辞職し、司空の劉愷が司徒、[[袁敞]]が司空となった。
 
元初3年([[116年]])春正月、蒼梧、鬱林、合浦の蛮が反乱し、2月に侍御史の[[任逴]]が派遣され州郡の兵士を指揮しこれを討った。5月には武陵蛮が再び反乱を起こし、州と郡が討伐にあたった。先零羌に対しては度遼将軍の[[鄧遵]]が南匈奴を率いて討伐に向かい、霊州で戦いこれを破った。6月には中郎将の任尚が先零羌を奚城において撃破した。秋7月には武陵蛮が平定され、冬11月には蒼梧、鬱林、合浦の蛮夷が降伏した。12月に、任尚は先零羌を北地において撃破した。
 
元初4年([[117年]])春2月、日食が起き、夏4月に司空の袁敞が死去した。同月に鮮卑が[[遼西]]に侵攻したが、遼西郡は烏桓と協力しこれを撃退した。護羌校尉となっていた任尚は9月、刺客を送って先零羌の頭目を殺害し、12月には騎都尉の馬賢と共に富平上河で先零羌の軍勢を大いに破り、隴右を平定した。
 
元初5年([[118年]])春正月、長らく動静が不穏であった越巂夷が反乱を起こし、永昌、益州蜀郡の夷もこれに呼応し、益州刺史の[[張喬]]がこれを討伐した。夏6月には高句麗と[[ワイ人|穢貊]]が[[玄菟郡]]を攻撃した。この間も天災が続き、倹約を励行する詔勅が発布された。元初6年([[119年]])春2月には、人材を求める詔勅も出された。秋7月、鮮卑が馬城を侵略し、度遼将軍の鄧遵は再び南単于を率いてこれを撃破した。
 
永寧元年([[120年]])3月、沈[[テイ (民族)|氐]]種羌が張掖に侵攻した。6月に護羌校尉となっていた馬賢がこれを討ち破った。この間、夏4月に[[劉保]]が皇太子となった。冬10月に司空の[[李郃]]が免職となり、[[陳褒]]が後任となった。この間、日食と長雨の被害が続いた。12月に司徒の劉愷が罷免され、[[楊震]]が後任となった。
 
=== 親政の確立 ===
[[建光 (漢)|建光]]元年([[121年]])春正月、幽州刺史の[[馮煥]]が二つの郡の太守を率いて高句麗と穢貊を討った。
 
成人後の安帝は外戚の{{lang|zh|鄧氏}}に反発するようになり、その影響からか生活に乱れが生じていた。また閻氏(えんし)を立后するが、安帝との子をもうけた他の后妃を殺害するなどを行っていた。
 
3月、長く臨朝して政治の実権を握っていた{{lang|zh|鄧}}氏が死去すると、{{lang|zh|鄧隲}}は大将軍を辞任し、特進待遇となった。安帝は、4月に実父や実母らに皇帝や皇后を追尊する一方で、楽成王の[[劉萇]]や罪に問い侯に降格させている。5月には閻氏や[[宦官]][[李閏]]らの助力を得て、{{lang|zh|鄧隲}}や鄧遵ら、鄧一族を粛清し、また、平原王の[[劉長]]を罪に問い侯に降格させた。秋7月には大赦が実行された。太尉の馬英が死去し、前の司徒の劉愷が太尉となった。
 
この間、夏4月に穢貊が再び鮮卑と組んで遼東に侵攻し、遼東太守の[[蔡諷]]は戦死している。また、遼東属国都尉の[[龐奮]]が偽の璽書を受けて玄菟太守の[[姚光]]を殺害するという事件が起きている。8月には護羌校尉の馬賢が焼当羌と金城で戦った。鮮卑が居庸関に侵攻し、9月に雲中太守の[[成厳]]が戦死し、鮮卑と烏桓校尉が馬城において衝突し、度遼將軍となった耿夔がこれを救援した。鮮卑の動きは収まらず、玄菟郡を攻撃した。冬11月には漁陽に営兵が初めて設置された。冬12月、高句麗と[[馬韓]]と穢貊が玄菟城を襲い、[[夫餘]]の助力を得て州郡の力を合わせてこれを破った。
 
延光元年([[122年]])、天候の不順は続き、夏4月に司空の陳褒が免職となり、5月に[[劉授]]が司空となった。高句麗が降ったが、虔人羌が反乱を起こし、穀羅城を攻撃した。度遼将軍の耿夔がこれを討ち破った。冬10月、鮮卑が鴈門・定襄を攻撃した。11月には鮮卑は太原を攻撃した。一方で焼当羌が降伏してきた。
 
延光2年([[123年]])、冬10月に太尉の劉愷が罷免し、司徒の楊震を太尉にし、[[劉憙]]を司徒とした。11月に鮮卑は南匈奴に曼柏で敗れた。蜀郡の西部に属国都尉を設置した。
 
延光3年([[124年]])春2月、安帝は東に巡察し、祭祀を執り行った後、3月に京師に帰還した。太尉の楊震が罷免され、[[石為]]が後任となった。
 
5月には南匈奴が叛いたが、匈奴中郎将の[[馬翼]]がこれを討ち破った。6月には鮮卑が再び玄菟郡に侵攻した。秋7月には右校、左校令の丞官を復活させた。8月には[[耿寶]]を大将軍に任命した。9月に、元の皇太子の劉保を済陰王とした。冬10月に長安に行幸した。
 
延光4年([[125年]])2月に安帝は南に巡狩したが、3月に客死した。32歳であった。従兄弟の北郷侯・[[少帝懿|劉懿]](章帝の孫で済北王[[劉壽]]の子)が擁立され、閻皇后が皇太后として臨朝し、兄の[[閻顯]]が車騎將軍としてそれを助けた。
 
夏4月、太尉の[[馮石]]を太傅にし、司徒の[[劉熹]]を太尉に、参録尚書事で前司空の李郃を司徒となる一方,大将軍耿寶、中常侍[[樊豊]]、侍中[[謝惲]][[周広]]らが罪に問われ、樊豊、謝惲、周広は獄死し、耿寶は自殺した。安帝は恭陵に葬られた。廟号は恭宗。
 
== 治世 ==