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主著は[[1790年]]の『[[フランス革命の省察]]』(原題:''Reflections on the Revolution in France'')であり、この本は保守主義の[[バイブル]]とされる。[[フランス革命]]を全否定して、[[ジャコバン派]]の完全追放のため、革命フランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導した。また文壇に出るきっかけとなった論文の『崇高と美の観念の起源』は、英国で最初に[[美学]]を体系化したものとして有名である。ここでは「崇高美」というひとつの美意識が定義されている。
 
政治家としては、[[絶対王政]]を批判し、[[議会政治]]を擁護した。[[議会]]における「[[国民代表]]」の理念を提唱したり、近代政治[[政党]]の定義づけをおこない、近代[[政治哲学]]を確立した。[[文章家]][[演説家]]でもあり、バークの著作は今でも[[英文学]]の対象であに重要な位置を占めており、英国イギリスの国会議員にはバークで演説を訓練するものが多い。
 
== 哲学 ==
{{保守}}
=== 骨格 ===
<ref>この項目の参考文献として「エドマンド・バー著『新ホイッグ党員から旧ホイッグ党員への訴え』について」森本哲夫(九州大学大学院法学研究科Jounal of law and politics1969-02-25)[https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/1583/4/KJ00000694881-00001.pdf][http://ci.nii.ac.jp/naid/110006262130]を利用している。</ref>バーク保守主義はフランス革命により提示された[[社会契約]]ではなく、本源的契約を重視する。多年にわたり根本的に保持してきたものの中に本源的契約の存在を見、その表れである祖先から相続した古来からの制度を擁護し、それを子孫に相続していくとする政治哲学である。この故に、自然的に発展し成長してきた目に見えぬ“法([[コモン・ロー]])”や道徳、あるいは階級や国家はもちろんの事、可視的な君主制度や貴族制度あるいは教会制度においても、ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない“'''[[イギリスの憲法|時効の憲法]]'''(prescriptive Constitution<ref>「規範的な、慣習的な、時効成立した、伝統に裏付けられた」「命法、憲法、基本法」のこと。「時効の憲法」の邦訳については「金子堅太郎『政治論略』研究(日本大学精神文化研究所)六、付論・Eバークの憲法(Cinstitution)観」による。</ref>)”があると看做す。
 
バークはフランス革命を激しく非難する一方で1688年の[[名誉革命]]を支持する。これは1688年の革命が人民主権説による立場からのものではなく、イギリス古来の憲政政策原理(旧[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ主義]])に沿ったものであり、民族固有の所産であり、必然性(necessity)から起こった革命であり、革命によりそれが保持されたためである。1688年革命は王国の古来の基本的国家組織本源的契約に、国王の側から侵害があったことが原因であり、それを回復し保持するためになされたとする。
 
バークはまたフランス革命に影響されたホイッグの同僚たちが支持する不可譲の人民主権説を批判する。すなわち人民主権説によれば、人民は、違反行為のあるなしにかかわらず王を処置しうる。人民は、随意に、自らいかなる政体をも新たに設けうる。為政者は義務だけを負わされ何の権利ももたない。彼らの治政の存続期間は契約の固有の課題ではなく人民の意志次第である。また事実上社会契約がなされ、それが拘束するとしても、それは直接契約に関わった人々だけを拘束するのであって子孫には及び得ない。バークは社会契約のもつ契約性の欺瞞を糾弾し、本源的な契約とはそのようなものではないとする。
 
イギリス国民の個々が享受し相続してきた「自由」「名誉」「財産」は、この“prescriptive Constitution”の擁護において、また、世代を超えて生命を得ている慣習・習俗や道徳の宿る“中間組織(intermediate social-group)”、例えば家族、ムラ、教会コミュニティ等の擁護によって、守られると考える。これは社会契約論が唱える仮想された[[自然権]]が必然として要求するような種類の権利ではなく、現実のイギリスの歴史が自然と形成してきた摂理である。しかし同時に[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]倫理学の系譜にのっとり経験論の限界にも言及しており、[[ヒュームの法則|歴史から道徳上の教訓を引き出すことの危険性]]について「歴史とは、注意を怠れば、我々の精神を蝕んだり幸福を破壊したりするのに使われかねない」<ref>「フランス革命の省察」半沢孝麿訳・みすず書房(p.177)</ref>とも述べている。
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== 生涯 ==
=== 誕生 ===
1729年1月12日、[[アイルランド]]の[[ダブリン]]の法律家リチャード・バークの次男として生まれる。父は[[ングランド国教会|国教徒]]、母は[[カトリック教会|カトリック]]であったが、彼は国教徒となる。1744年、15歳でダブリンの[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学する。1748年に文学士の学位を得るが大学に残り、美学の研究を続ける。1750年、父の希望に従い、[[ロンドン]]の法学院[[ミドル・テンプル]]に入学する。
 
1756年に『自然社会の擁護』、571957年に『崇高と美の観念の起源』を匿名で発表する。特に後者が[[サミュエル・ジョンソン]]に「真に批評に値するもの」と評価され、文壇に出る。この年にジェーン・ニュージェントと結婚する。1758年には[[ロバート・ドズリー]]と年鑑『[[アニュアル・レジスター]]』を創刊し、長くこれに寄稿する。1759年、政治家[[W.G.{{仮リンク|ウィリアム・ジェラード・ハミルトン]]|en|William Gerard Hamilton}}の秘書となる。1761年から641764年まで、[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]{{仮リンク|ジョージ・モンタギュー=ダンク (第2代ハリファクス伯爵)|en|George Montagu-Dunk, 2nd Earl of Halifax|label=ハリファクス伯}}の首席秘書となったハミルトンとともに主としてダブリンに滞在する。1764年にジョンソンを中心にして結成される「[[ザ・クラブ]]」(のちの文学クラブ)に[[ジョシュア・レノルズ]]、[[オリヴァー・ゴールドスミス]]らとともに創設会員となる。
 
=== 政治家として ===
1764年にハミルトンと決裂した後、1765年に[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の派閥の領袖[[ロッキンガム侯]][[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]の秘書となり、[[バッキンガムシャー]]から選出されて英国[[庶民院|下院]]議員となる。
 
国王[[ジョージ3世|国 (イギリス)|ジョージ3世]]と「キングズ・フレンズ王の友」と呼ばれた[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]員たちが[[名誉革命]]以降制限された諸権限をもどそうとするなか、1770年に『現代の不満の原因についての考察』により[[政党政治]]の意義を説き、議会の王権からの独立、議会情報の公開を主張した
 
植民地政策をめぐっては、通商政策を重視し、「アメリカに対する課税」「和解の提案」を記し、アメリカ植民地住民との和解を主張した。また、アイルランドのカトリック教徒を弁護し、経済上・刑罰上の規制緩和を訴えた。さらに、[[イギリス東インド会社|東インド会社]]による腐敗したインド統治を是正するため[[インド法]]案の起草者となる。初代[[インド総督]]である[[ウォーレン・ヘースティングズ]]に対しては1773年に不信を表明し、後には弾劾運動を始め1794年にバーク自身がが議を引退するまで続けた。
 
また、[[ブリストル]]選挙区から立候補した際には、近代デモクラシーの代表制における「[[国民代表]]」の観念で有名な[[ブリストル演説]]をおこなっている。
 
1784年には[[グラスゴー大学]]の学長に任命されている。
 
=== 対フランス革命 ===
1789年7月14日の[[バスティーユ牢獄]]の襲撃がロンドンの新聞紙上に報じられた7月18日、バークは既に60歳の老齢であった。バークは当初から[[フランス革命]]に対し否定的であり、そのことは彼によるフランス革命への記録上最初の言及である1789年8月9日の手紙からわかる。その手紙には、「自由を求めて苦闘しているフランスを、イングランドは驚きながらじっと見つめている。 非難すべきか賞賛すべきかは分からない! 進歩の中に何かそれらしいものが見えると、私は数年来考えた。だがいまだにその苦闘は、逆説的で奇妙なものを確かに内包している。自由への精神に感心しないわけにはいかないが、年老いたパリ市民の蛮行は衝撃的なやり方で勃発したのである。」<ref>J. C. D. Clark (ed.), Reflections on the Revolution in France. A Critical Edition (Stanford UniversityPress, 2001), p. 26, n. 13. 以下単に"Clark"</ref>とある。
 
バークがフランス革命を断固として拒絶するようになったきっかけは、1789年10月5日から6日にかけて、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]をパリに引き戻すために、市民が暴徒化して[[ヴェルサイユ]]へ進撃した出来事([[ヴェルサイユ行進]])である。同月10日、バークは息子リチャードての手紙の中で、「この日私は、フランスのゆゆしき宣言を示す文書を送ってきたローレンスから耳にした。その宣言においては、まるで人間社会を構成する要素がみな解決したかのように思われ、そして怪物のような世界が生成される。そして、尊大な反政府主義者[[オノーレ・ミラボー|ミラボー]]主宰が統括し、前の君主は哀れなほどにおかしな姿になっているのである。」<ref>Clark, pp. 61–2.</ref>と記した。またバークは、当時無名であったリチャード・プライスの名誉革命記念協会がフランス国民会議に賛辞を送ったことにより、あたかもイギリスの世論が同協会の意見と同一視されることに危惧を抱いていた。
 
同年11月、バークは革命支持者であるフランス人青年シャルル=ジャン=フランソワ・デュポンから手紙を受け取る。バークは「私の言う危機的な言い回しは、すべて単なる疑問の表現として見なされるべきである。」と返答した。が、彼は付け足した。「貴方がたは君主を倒したかもしれない。でも自由は奪回できていない。」<ref>Clark, p. 62.</ref>と。さらにその後、バークがしたためた長文の手紙と、1790年1月に第2の返信をしたためている時読んだ、[[ユニテリアン]]牧師リチャード・プライスの『祖国愛について』への反論が合わさり、同年11月の『フランス革命の省察』の出版に至る。『フランス革命の省察』の内容はフランス革命への批判、そして革命が後どのような経過を辿るかの予見である。
 
革命はバークの予測通り[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]の恐怖政治と[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の軍事独裁へと突き進んだ。また、革命熱は3世代にわたり冷却せずサイクル的にフランスを襲うとのバークの予測もその通りで、フランス革命熱からフランス人が覚醒したのは[[フランス第3共和政|第三共和国]]憲法(1875年)の制定前後からであった。
 
バークがはじめて公的な革命非難を行ったのは、1790年2月9日、軍隊の予算見積もりに関する国会の議論においてである。首相の[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]やフォックス・[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]がフランス革命を賞賛したことによって引き起こされた。
:昨夏議会が閉会されて以来、多くの労力がフランスにおいてされてしまった。 フランスはこれまで世界に存在してきた有能な破壊の建築家を証明した。非常に短い時間で彼らは完全に自らの基礎を、君主を、教会を、高潔さを、法律を、収入を、陸海軍を、商業を、芸術を、工業を破壊した…。不合理、無節操、追放、押収、収奪、凶暴で血まみれで専制的な民主主義の行き過ぎの模倣である…これらの例の危険性はもはや不寛容からくるものではない…無神論、反則、悪行、一切の尊厳の敵、そして人間の慰めからくるのである。長い間、公認、そしてほぼ公然であった派閥に具現化されるフランスの中に、これらが存在するように思われる。<ref>Clark, pp. 66–7.</ref>
 
さらに1790年5月6日、英国[[庶民院|下院]]でフランス革命の脅威を説いたので、この日を「政治的保守主義」ないし「近代保守主義」の生誕の記念日とする者も存在する。『省察』出版後、1791年に「フランス国民議会の一議員への手紙」を出し、バークはその中で「なるほど確かにフランス国民は主権者になったが、同時にいつ殺されるかわからない奴隷となった」として、フランスがアナーキーな状態になっていると批判した。
:昨夏議会が閉会されて以来、多くの労力がフランスにおいて為されてしまった。 フランスはこれまで世界に存在してきた有能な破壊の建築家を証明した。非常に短い時間で彼らは完全に自らの基礎を、君主を、教会を、高潔さを、法律を、収入を、陸海軍を、商業を、芸術を、工業を破壊した…。不合理、無節操、追放、押収、収奪、凶暴で血まみれで専制的な民主主義の行き過ぎの模倣である…これらの例の危険性はもはや不寛容からくるものではない…無神論、反則、悪行、一切の尊厳の敵、そして人間の慰めからくるのである。長い間、公認、そしてほぼ公然であった派閥に具現化されるフランスの中に、これらが存在するように思われる。<ref>Clark, pp. 66–7.</ref>
 
また同年9月には政府への建白書「フランス革命情勢」が出され、フランス国内に反革命勢力が存在しているうちに英国はフランスに宣戦布告すべきであると主張した。1792年12月には「現在の情勢」を記し、ピットがフランスの革命エネルギーによる領土的侵略を警戒したのに対し、バークは英国の法と自由の崩壊、ひいてはヨーロッパ文明の破壊というフランス革命によるイデオロギー的侵略・精神的侵略に重点を変更するよう警鐘を鳴らした。
さらに1790年5月6日、英国議会の[[庶民院]]でフランス革命の脅威を説いたので、この日を「政治的保守主義」ないし「近代保守主義」の生誕の記念日とする者も存在する。
『省察』出版後、1791年に「フランス国民議会の一議員への手紙」を出し、バークはその中で、「なるほど確かにフランス国民は主権者になったが、同時にいつ殺されるかわからない奴隷となった」として、フランスがアナーキーな状態になっていると批判した。
 
また同年9月には政府への建白書「フランス革命情勢」が出され、フランス国内に反革命勢力が存在しているうちに英国はフランスに宣戦布告すべきであると主張した。1792年12月には「現在の情勢」を記し、ピットがフランスの革命エネルギーによる領土的侵略を警戒したのに対し、バークは英国の法と自由の崩壊、ひいてはヨーロッパ文明の破壊というフランス革命によるイデオロギー的侵略・精神的侵略に重点を変更するよう警鐘を鳴らした。
 
バークはピットが指導する対仏戦争に反革命の十字軍としての使命感を求め、1796年の「国王弑逆者との講和(に反対する)」では“同じ文化・同じ宗教・同じ法”を共有していない者との講和は不可能であるとして、国家利益の見地から英国が模索するフランス革命政府との妥協に反対した。{{要出典範囲|完全な粉砕による無条件降伏まで戦争を続行することを主張したのである|date=2010年10月}}。こうした姿勢は、この世を去るまで貫かれた。
 
=== 晩年 ===
1794年に議会を退き、ビーコンズフィールドに引退した。同8月溺愛していた息子リチャードが死去する。1797年の初めから[[バース (イングランド)|バース]]に転地療養するが、5月下旬にビーコンズフィールドに戻り、7月9日、私邸で病没した。[[腸結核]]とされる。68歳。墓はなく、教会の礼拝堂の床下深くに妻、息子とともに埋葬されている[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GSln=Burke&GSfn=Edmund+&GSbyrel=in&GSdyrel=in&GSob=n&GRid=12496191&]
1797年の初めから[[バース (イングランド)|バース]]に転地療養するが5月下旬にビーコンズフィールドに戻り、7月9日、私邸で病没。[[腸結核]]とされる。68歳。墓はなく、教会の礼拝堂の床下深くに妻、息子とともに埋葬されている[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GSln=Burke&GSfn=Edmund+&GSbyrel=in&GSdyrel=in&GSob=n&GRid=12496191&]。
 
== バーク哲学の継承 ==
<!--'''英国'''で「バーク哲学」を体系的に継承してその復活を試みたのは、十九19世紀末の歴史家[[ジョン・アクトン|ジョン・エメリック・アクトン卿]]であった。[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]と[[フランス革命]]を「功利主義」という偽装的な言葉で「現代化」した[[ジェレミ・ベンサム|ベンサム]]の英国型全体主義理論が[[ジョン・スチュアート・ミル|J・S・ミル]]によって社会主義へと発展している事態を憂慮して、バークを用いて反撃に出たのである。その後、バーク哲学を全面に押し出した学者は英国には誕生していないが、「バーク外交」を継承した政治家を2人輩出した。その2人とは、-->経営史学者[[野中郁次郎]]によれば、[[ウィンストン・チャーチル]]はバークを政治家としての1つのプロトタイプとしていたとする<ref>野中郁次郎「私と経営学」三菱総研倶楽部2008-10[http://www.mri.co.jp/NEWS/magazine/club/05/__icsFiles/afieldfile/2009/01/15/20081001_club06.pdf]</ref>。
 
米国においては、[[エドワード・コーク|コーク]]/[[ウィリアム・ブラックストン|ブラックストーン]]による「[[法の支配]]」の法哲学が、[[アレクサンダー・ハミルトン]]らによって継承されていた。バーク哲学が本格的に流入したのは、1950年の[[朝鮮戦争]]の勃発に伴って、国を挙げて反共に思想武装するためであり、[[ラッセル・カーク]]らに先導されて大ブームとなった。そして、1981年に大統領になった[[ロナルド・レーガン]]は、反共反ソであっただけでなく、米国史上初めて“バーク保守主義”を信奉する大統領であった。
 
フランスにおいては、初のバーク主義者は[[アレクシ・ド・トクヴィル|トクヴィル]]であり、その主著『アメリカのデモクラシー』(1835年 - 1840年)の主概念「多数者の専制」は、バークの概念を借用しているし、「平等」が国家社会をアナーキーに解体していき反転して全体主義体制に至るとのトックヴィルのモチーフは『フランス革命の省察』そのものである。だが、フランスでは反バーク的なルソーの影響はまだまだ絶大で、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]や[[マルティン・ハイデッガー|ハイデガー]]や[[ジークムント・フロイト|フロイト]]などとこのルソーを混淆して1968年頃には[[ミシェル・フーコー|フーコー]]らの[[ポストモダン]]思想を構築している。
 
バーク哲学が事実上まったく導入運用されなかったのはドイツとロシアである。ドイツではルソー直系の[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]を通じて[[ドイツ歴史学派]]や[[マルクス主義]]が隆盛し、マルクス主義から[[フランクフルト学派]]の社会学などが発展した。なお、このドイツ主流派の流れと対立する思想の[[イマヌエル・カント]]は『[[判断力批判]]』においてバークの美学・崇高論を参照している。カントの思想は一部[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]に引き継がれたが、結局のところドイツでは現代にいたるまで、このカント的あるいはバーク的といえる思想は現実社会で具現化しなかった。
 
== 名言 ==
''[[q:エドマンド・バーク|ウィキクォート:エドマンド・バーク]]''を参照
 
== 著作 ==
=== 著作集 ===
* ''The writings and speeches of Edmund Burke'', Vol.I~IXI-IX, Oxford.
 
=== 著作:日本語訳 ===
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== 日本における研究状況 ==
日本に初めてバークを紹介したのは[[金子堅太郎]]である。[[1881年]]、金子はバークの『フランス革命の省察』と『新ウィッグから旧ウィッグへ』を抄訳『政治論略』として[[元老院 (日本)|元老院]]から刊行した。[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]の[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]主義への批判が目的であった。
 
ルソーを信奉する[[植木枝盛]]は、これに対して[[1882年]]、論文「勃爾咢(ボルク)ヲ殺ス」により反論した
 
[[井上毅]]は、この金子のバーク抄訳を読んでバークに感動し、金子を[[伊藤博文]]の秘書官に任用して、[[大日本帝国憲法|明治憲法]]の起草に参画させた。こうして、バークは明治憲法に影響している。
 
しかし、明治憲法の運用は、上からの近代化を強力に推し進めるためドイツ法を範にされることになった。その後東京大学法学部がドイツ憲法学に主軸をおきイギリス憲法学を排除したことによって、[[エドワード・コーク|コーク]]や[[ウィリアム・ブラックストン]]とともにバークも東大のカリキュラムから排除された。その上、日本では[[ドイツ観念論]]や[[マルクス主義]]がもてはやされたことからバークの存在は省みられなかった。
 
バークに関する研究が始まるのは[[第二次世界大戦]]後のことで、まずは[[小松春雄]]による研究、これに[[岸本広司]]が続き、日本においてもある程度の研究基盤ができた。
 
一方、フランス革命を熱烈に支持し[[トマス・ペイン]]の信奉者である[[坂本義和]]は、反バークの立場から、自分のバーク論をまとめている。
 
なお、[[新渡戸稲造]]はその主著『武士道』の冒頭に、「ヨーロッパにおいてこれ(武士道―引用者)と姉妹たる騎士道が死して顧みられざりし時、ひとりバークはその棺の上にかの周知の感動すべき讃辞を発した。いま彼れバークの国語〔英語〕をもってこの問題についての考察を述べることは、私の愉快とするところである」と書き記している。
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== 関連文献 ==
* [[石田憲次]]『ジョンソン博士とその群』[[研究社]]、1933年
* [[上田又次]]『エドモンド・バーク研究』  至文堂、1937年。※:上田は平泉門下の一員。
* [[金子堅太郎]]『政治論略』 [[元老院 (日本)|元老院]]、1881年
*[[苅谷千尋]]『名誉の政治学-バークの政党論を手がかりに』(政策科学14(1)立命大学)[http://www.ps.ritsumei.ac.jp/assoc/policy_science/141/14103kariya.pdf][http://ci.nii.ac.jp/naid/110006380093][http://www.ps.ritsumei.ac.jp/assoc/policy_science/141/14103kariya.pdf]
* [[岸本広司]]『バーク政治思想の形成』[[御茶の水書房]]、1989年
* 岸本広司『バーク政治思想の展開』御茶の水書房、2000年
* [[小松春雄]]『イギリス保守主義史研究―エドマンド・バークの思想と行動』御茶の水書房、1961年
* 小松春雄『イギリス政党史研究―エドマンド・バークの政党論を中心に』御茶の水書房、1983年
* [[坂本義和]]「国際政治における反革命思想」。※『坂本義和集1.国際政治と保守思想』 [[岩波書店]]、2004年 に収録、坂本はバーク批判の立場。
* [[末冨浩]] 『エドマンド・バーク  政治における原理とは何か』昭和堂、2014年
* [[中野好之]]『バークの思想と現代日本人の歴史観』  御茶ノ水書房、2002年
* [[西部邁]]「47  バーク」『学問』所収、講談社、2004年、160-162頁、ISBN 4-06-212369-X
* 西部邁「保守的自由主義の源流  エドマンド・バーク」『思想の英雄たち  保守の源流をたずねて』所収、角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、2012年、25-40頁、ISBN 978-4-7584-3629-8
* [[平泉澄]]  「革命とバーク」  『武士道の復活』 [[至文堂]]、1933年  (復刻:[[錦正社]]、1988年。この論考は、『先哲を仰ぐ』 [[錦正社]]、1998年にも収む)
 
== 関連項目 ==
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* [[議会政治]]
* [[自由主義]]
* [[政党保守]]
* [[伝統]]
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* [[美学]]
* [[フランス革命]]
* [[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ]]
* [[法の支配]]
* [[明治大日本帝国憲法]]
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* [[5月3日憲法|]](ポーランド1791年憲法]] - バークが「あらゆる時代の国民が受けられる最も役立つ素晴らしいものである」と評論。
* [[保守]]
* [[明治憲法]]
* [[5月3日憲法|ポーランド1791年憲法]] - バークが「あらゆる時代の国民が受けられる最も役立つ素晴らしいものである」と評論。
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=== 人物 ===
182 ⟶ 167行目:
* [[サミュエル・ジョンソン]]
* [[ジョシュア・レノルズ]]
* [[ジョン・アクトン|ジョン・エメリック・アクトン卿]]
* [[ジョン・ミルトン]]
* [[デイヴィッド・ヒューム]]
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{{Commons|Edmund Burke}}
{{wikiquote}}
 
{{DEFAULTSORT:はあく えとまんと}}
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[[Category:イギリスの保守思想家]]
[[Category:18世紀の学者]]
[[Category:イギリス・ホイッグ党の政治家]]
[[Category:イギリスの保守政治家]]
[[Category:グラスゴー大学の教員]]
[[Category:ダブリン出身の人物]]
[[Category:1729年生]]