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主著は[[1790年]]の『[[フランス革命の省察]]』(原題:''Reflections on the Revolution in France'')であり、この本は保守主義の[[バイブル]]とされる。[[フランス革命]]を全否定して、[[ジャコバン派]]の完全追放のため、革命フランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導した。また文壇に出るきっかけとなった論文の『崇高と美の観念の起源』は、英国で最初に[[美学]]を体系化したものとして有名である。ここでは「崇高美」というひとつの美意識が定義されている。
政治家としては、[[絶対王政]]を批判し、[[議会政治]]を擁護した。
== 哲学 ==
{{保守}}
=== 骨格 ===
<ref>この項目の参考文献として「エドマンド・バー
バークはフランス革命を激しく非難する一方で1688年の[[名誉革命]]を支持する。これは1688年の革命が人民主権説による立場からのものではなく、イギリス古来の憲政政策原理(旧[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ主義]])に沿ったものであり、民族固有の所産であり、必然性(necessity)から起こった革命であり、革命によりそれが保持されたためである。1688年革命は王国の古来の基本的国家組織
バークはまたフランス革命に影響されたホイッグの同僚たちが支持する
イギリス国民の個々が享受し相続してきた「自由」「名誉」「財産」は、この“prescriptive Constitution”の擁護において、また、世代を超えて生命を得ている慣習・習俗や道徳の宿る“中間組織(intermediate social-group)”、例えば家族、ムラ、教会コミュニティ等の擁護によって、守られると考える。これは社会契約論が唱える仮想された[[自然権]]が必然として要求するような種類の権利ではなく、現実のイギリスの歴史が自然と形成してきた摂理である。しかし同時に[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]倫理学の系譜にのっとり経験論の限界にも言及しており、[[ヒュームの法則|歴史から道徳上の教訓を引き出すことの危険性]]について「歴史とは、注意を怠れば、我々の精神を蝕んだり幸福を破壊したりするのに使われかねない」<ref>「フランス革命の省察」半沢孝麿訳・みすず書房(p.177)</ref>とも述べている。
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== 生涯 ==
=== 誕生 ===
1729年1月12日、[[アイルランド]]の[[ダブリン]]の法律家リチャード・バークの次男として生まれる。父は[[アイ
1756年に『自然社会の擁護』、
=== 政治家として ===
1764年にハミルトンと決裂した後、1765年に[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の派閥の領袖[[ロッキンガム侯]][[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]の秘書となり、[[バッキンガムシャー]]から選出されて英国[[庶民院|下院]]議員となる。
国王[[ジョージ3世
植民地政策をめぐっては、通商政策を重視し、「アメリカに対する課税」
1784年には[[グラスゴー大学]]の学長に任命されている。
=== 対フランス革命 ===
1789年7月14日の[[バスティーユ牢獄]]の襲撃がロンドンの新聞紙上に報じられた7月18日、バークは既に60歳の老齢であった。バークは当初から[[フランス革命]]に対し否定的であり、そのことは彼によるフランス革命への記録上最初の言及である1789年8月9日の手紙からわかる。その手紙には、「自由を求めて苦闘しているフランスを、イングランドは驚きながらじっと見つめている。 非難すべきか賞賛すべきかは分からない! 進歩の中に何かそれらしいものが見えると、私は数年来考えた。だがいまだにその苦闘は、逆説的で奇妙なものを確かに内包している。自由への精神に感心しないわけにはいかないが、年老いたパリ市民の蛮行は衝撃的なやり方で勃発したのである。」<ref>J. C. D. Clark (ed.), Reflections on the Revolution in France. A Critical Edition (Stanford UniversityPress, 2001), p. 26, n. 13. 以下単に"Clark"</ref>とある。
バークがフランス革命を断固として拒絶するようになったきっかけは、1789年10月5日から6日にかけて、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]をパリに引き戻すために、市民が暴徒化して
同年11月、バークは
革命はバークの予測通り、[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]の恐怖政治と[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の軍事独裁へと突き進んだ。また、革命熱は3世代に
バークがはじめて公的な革命非難を行ったのは、1790年2月9日、軍隊の予算見積もりに関する国会の議論においてである。首相の[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]や
:昨夏議会が閉会されて以来、多くの労力がフランスにおいて
さらに1790年5月6日、英国[[庶民院|下院]]でフランス革命の脅威を説いたので、この日を「政治的保守主義」ないし「近代保守主義」の生誕の記念日とする者も存在する。『省察』出版後、1791年に「フランス国民議会の一議員への手紙」を出し、バークはその中で
▲:昨夏議会が閉会されて以来、多くの労力がフランスにおいて為されてしまった。 フランスはこれまで世界に存在してきた有能な破壊の建築家を証明した。非常に短い時間で彼らは完全に自らの基礎を、君主を、教会を、高潔さを、法律を、収入を、陸海軍を、商業を、芸術を、工業を破壊した…。不合理、無節操、追放、押収、収奪、凶暴で血まみれで専制的な民主主義の行き過ぎの模倣である…これらの例の危険性はもはや不寛容からくるものではない…無神論、反則、悪行、一切の尊厳の敵、そして人間の慰めからくるのである。長い間、公認、そしてほぼ公然であった派閥に具現化されるフランスの中に、これらが存在するように思われる。<ref>Clark, pp. 66–7.</ref>
▲『省察』出版後、1791年に「フランス国民議会の一議員への手紙」を出し、バークはその中で、「なるほど確かにフランス国民は主権者になったが、同時にいつ殺されるかわからない奴隷となった」として、フランスがアナーキーな状態になっていると批判した。
▲また同年9月には政府への建白書「フランス革命情勢」が出され、フランス国内に反革命勢力が存在しているうちに英国はフランスに宣戦布告すべきであると主張した。1792年12月には「現在の情勢」を記し、ピットがフランスの革命エネルギーによる領土的侵略を警戒したのに対し、バークは英国の法と自由の崩壊、ひいてはヨーロッパ文明の破壊というフランス革命によるイデオロギー的侵略・精神的侵略に重点を変更するよう警鐘を鳴らした。
バークはピットが指導する対仏戦争に反革命の十字軍としての使命感を求め、1796年の「国王弑逆者との講和(に反対する)」では“同じ文化・同じ宗教・同じ法”を共有していない者との講和は不可能であるとして、国家利益の見地から英国が模索するフランス革命政府との妥協に反対した。{{要出典範囲|完全な粉砕による無条件降伏まで戦争を続行することを主張したのである|date=2010年10月}}。こうした姿勢は、この世を去るまで貫かれた。
=== 晩年 ===
1794年に議会を退き、ビーコンズフィールドに引退した。同
== バーク哲学の継承 ==
<!--'''英国'''で「バーク哲学」を体系的に継承してその復活を試みたのは、
米国においては、[[エドワード・コーク|コーク]]/[[ウィリアム・ブラックストン|ブラックストーン]]による「[[法の支配]]」の法哲学が、[[アレクサンダー・ハミルトン]]らによって継承されていた。バーク哲学が本格的に流入したのは、1950年の[[朝鮮戦争]]の勃発に伴って、国
フランスにおいては、初のバーク主義者は[[アレクシ・ド・トクヴィル|トクヴィル]]であり、その主著『アメリカのデモクラシー』(1835年 - 1840年)の主概念「多数者の専制」は、バークの概念を借用しているし、「平等」が国家社会をアナーキーに解体していき、反転して全体主義体制に至るとのトックヴィルのモチーフは『フランス革命の省察』そのものである。だが、フランスでは反バーク的なルソーの影響はまだまだ絶大で、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]や[[マルティン・ハイデッガー|ハイデガー]]や[[ジークムント・フロイト|フロイト]]などとこのルソーを混淆して、1968年頃には[[ミシェル・フーコー|フーコー]]らの[[ポストモダン]]思想を構築している。
バーク哲学が
== 著作 ==
=== 著作集 ===
* ''The writings and speeches of Edmund Burke'', Vol.
=== 著作:日本語訳 ===
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== 日本における研究状況 ==
日本に初めてバークを紹介したのは[[金子堅太郎]]である。[[1881年]]、金子はバークの『フランス革命の省察』と『新ウィッグから旧ウィッグへ』を抄訳『政治論略』として[[元老院 (日本)|元老院]]から刊行した。[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]の[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]主義への批判が目的であった。
ルソーを信奉する[[植木枝盛]]は、これに対して[[1882年]]、論文「勃爾咢(ボルク)ヲ殺ス」により反論した。
[[井上毅]]は、この金子のバーク抄訳を読
しかし、明治憲法の運用は、上からの近代化を強力に推し進めるため、ドイツ法を範にされることになった。その後、東京大学法学部がドイツ憲法学に主軸をおき、イギリス憲法学を排除したことによって、[[エドワード・コーク|コーク]]や[[ウィリアム・ブラックストン]]とともに、バークも東大のカリキュラムから排除された。その上、日本では[[ドイツ観念論]]や[[マルクス主義]]がもてはやされた
バークに関する研究が始まるのは[[第二次世界大戦]]後のことで、まずは
一方、フランス革命を熱烈に支持し、[[トマス・ペイン]]の信奉者である[[坂本義和]]は、反バークの立場から、自分のバーク論をまとめている。
なお、[[新渡戸稲造]]はその主著『武士道』の冒頭に、「ヨーロッパにおいてこれ(武士道―引用者)と姉妹たる騎士道が死して顧みられざりし時、ひとりバークはその棺の上にかの周知の感動すべき讃辞を発した。いま彼れバークの国語〔英語〕をもってこの問題についての考察を述べることは、私の愉快とするところである」と書き記している。
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== 関連文献 ==
* [[石田憲次]]『ジョンソン博士とその群』[[研究社]]、1933年
* [[上田又次]]『エドモンド・バーク研究』
* [[金子堅太郎]]『政治論略』 [[元老院 (日本)|元老院]]、1881年
*[[苅谷千尋]]『名誉の政治学
* [[岸本広司]]『バーク政治思想の形成』[[御茶の水書房]]、1989年
* 岸本広司『バーク政治思想の展開』御茶の水書房、2000年
* [[小松春雄]]『イギリス保守主義史研究―エドマンド・バークの思想と行動』御茶の水書房、1961年
* 小松春雄『イギリス政党史研究―エドマンド・バークの政党論を中心に』御茶の水書房、1983年
* [[坂本義和]]「国際政治における反革命思想」。※『坂本義和集1.国際政治と保守思想』
* [[末冨浩]] 『エドマンド・バーク
* [[中野好之]]『バークの思想と現代日本人の歴史観』
* [[西部邁]]「47
* 西部邁「保守的自由主義の源流
* [[平泉澄]]
== 関連項目 ==
* [[自由主義]]
* [[
* [[フランス革命]]
* [[ホイッグ党 (イギリス)
* [[法の支配]]
▲* [[明治憲法]]
▲* [[5月3日憲法|ポーランド1791年憲法]] - バークが「あらゆる時代の国民が受けられる最も役立つ素晴らしいものである」と評論。
=== 人物 ===
182 ⟶ 167行目:
* [[サミュエル・ジョンソン]]
* [[ジョシュア・レノルズ]]
* [[ジョン・アクトン
* [[ジョン・ミルトン]]
* [[デイヴィッド・ヒューム]]
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{{Commons|Edmund Burke}}
{{wikiquote}}
{{DEFAULTSORT:はあく えとまんと}}
203 ⟶ 189行目:
[[Category:イギリスの保守思想家]]
[[Category:18世紀の学者]]
[[Category:イギリス・ホイッグ党の政治家]]
[[Category:イギリスの保守政治家]]
[[Category:グラスゴー大学の教員]]
[[Category:ダブリン出身の人物]]
[[Category:1729年生]]
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