「長岡護美」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[嘉永]]3年([[1850年]])5月、[[喜連川藩]]主・[[喜連川煕氏]]の養子となり金王丸と称した。嘉永7年12月1日、将軍[[徳川家定]]に拝謁する。[[安政]]3年([[1856年]])4月に元服し、'''喜連川紀氏'''と名乗った。官位は左兵衛督。しかし、安政5年([[1858年]])4月28日、喜連川家を離籍し、実家の熊本に戻った<ref>[[茨城大学]]准教授[[磯田道史]]によると、武者修行の若者を装って喜連川家から逃亡したがすぐに発覚し、細川家に送還されたと述べられている。逃亡の理由は「[[足利氏|足利家]]が[[南朝 (日本)|南朝]]に背いた存在であることを苦に思っていたことと、[[函館市|函館]]から密航して海外留学を企てていたから」だという。[[朝日新聞]]連載「この人、その言葉」-[[2010年]][[8月21日]]朝刊</ref><ref>[[司馬遼太郎|司馬{{JIS2004フォント|&#63939;}}太郎]]によれば、世の中の騒乱を見て矢も盾もたまらなくなり、絶縁状を置いて一人で草鞋がけで江戸へ出た。上野かどこかで空腹にたまりかね、そこらの家に上がりこんで一番よさそうな部屋の正面にドカッと座った。その家の連中も、変な奴が入ってきたが、これだけ堂々としたふるまいならよほど身分のいい人間に違いないと思い名を尋ねると喜連川の殿様。みな平伏して飯を食わせた、とのこと。[[海音寺潮五郎]]・司馬{{JIS2004フォント|&#63939;}}太郎 『<small>新装版</small> 日本歴史を点検する』 [[講談社文庫]] ISBN 978-4062759168、189p</ref>。
 
[[明治]]元年([[1868年]])3月、明治新政府の[[参与]]に就任する。同月、従五位下左京亮、同年閏4月、従四位下侍従に昇進する。明治3年([[1870年]])、熊本藩知事で兄の[[細川護久]]に重用されて、大参事に就任する。藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。
 
[[1872年]](明治5年)から[[1879年]](明治12年)まで、アメリカを経て[[ケンブリッジ大学]]に留学する。帰国後、旧熊本藩細川家から分家し、[[華族]]に加えられる。[[1880年]](明治13年)、[[外務省]]に入省して[[ベルギー]]や[[オランダ]]の[[特命全権公使|公使]]、[[1882年]](明治15年)、[[元老院議官]]に就任する。[[1884年]](明治17年)7月8日、[[男爵]]。[[1890年]](明治23年)7月から翌年10月、[[1897年]](明治30年)7月から1906年(明治39年)4月まで貴族院議員をつとめた。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる<ref>『官報』第2195号「告示」、明治23年10月22日。[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945448 国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1890年10月22日] 3コマ目右ページ上段に「従三位勲二等男爵 長岡護美」の名が見えるが、麝香間祗候と書かれている。</ref>。[[1891年]](明治24年)4月23日には子爵に陞爵。1906年1月24日、麝香間祗候となる<ref>『官報』第6769号「叙任及辞令」、明治39年1月25日。[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2950108 国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1906年01月25日] 2コマ目左ページ下段に「錦鶏間祗候 正三位勲二等子爵 長岡護美」の名が見える。</ref>。
 
養子に、甥(護久の次男)の[[長岡護全|護全]]と、[[長岡護孝|護孝]](もりたか、実父は[[細川利永]]の婿養子・[[細川利文]]、夫人は[[細川護成]]の娘・英子)がいる。
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* [[1884年]](明治17年)[[7月8日]] - [[男爵]]
* [[1891年]](明治24年)[[4月23日]] - [[子爵]]
* [[1906年]](明治39年)[[4月8日]] - [[従二位]]・[[勲一等]][[瑞宝章]]<ref>『官報』第6830号「叙任及辞令」、1906年04月10日。[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2950171 国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1906年04月10日] 3コマ目左ページ下段に長岡護美の名が見える。</ref>
 
;=== 外国勲章 ===
* [[1883年]](明治16年)[[8月13日]] - [[オランダ王国]]ゴロートコロイスデルオルデフアンデンネーデルランドセンレーウ勲章([[:nl:Orde van de Nederlandse Leeuw]])<ref>『官報』第38号「賞勲叙任」、1883年08月14日。[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2943242 国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1883年08月14日] 4コマ目右ページ上段に「元老院議官従四位勲三等長岡護美」の名が見える。</ref>
 
== 脚注 ==
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*[[東京地学協会]]
*[[興亜会]]
 
 
{{在オランダ日本大使|1880年-1881年|公使}}
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[[Category:貴族院男爵議員]]
[[Category:貴族院子爵議員]]
[[Category:勲一等瑞宝章受章者]]
[[Category:幕末熊本藩の人物]]
[[Category:幕末喜連川藩の人物]]