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[[1965年]]に[[ニューヨーク・コレクション]]に初参加。[[蝶]]をモチーフにした女性的でエレガントなドレスが受け、マダム・バタフライと呼ばれてファッション界の話題になった。アメリカでの好評を受け、[[パリ・コレクション]]にも進出した。その後、洋服だけでなく、ハナエ・モリと蝶のマークを冠した[[ライセンス]]商法をスタートさせ、タオルや魔法瓶、トイレのスリッパに至るまで商品数を増やし、事業の幅を広げた。それまで小規模なビジネスであったクチュール業界において、百億円に近いビジネス拡大は世界のファッション業界を驚かせるもので、ファッションビジネスの未来を切り開いたとして評価され、[[1977年]]には、ファッション業界において最も権威的であり、非常に閉鎖的でもあったフランス・[[オートクチュール]]協会(Fédération française de la couture)から、アジア人として初めて会員として認められた。これらは、その後の日本人デザイナーの世界進出や、クチュール[[メゾン]](デザイナーハウス)の巨大ビジネス化に寄与している。
 
顧客には[[グレース・ケリー]]([[モナコ]][[王妃]])、[[ソフィア・ローレン]]などが名を連ねた。<ref>[http://www.fashion-press.net/brands/199 ファッションプレス ]森英恵について</ref>
 
1983年、[[青木定雄]]の懇請により[[エムケイ (タクシー会社)|エムケイタクシー]]の制服のデザインを制作。それは2005年10月までの22年間使用された。1988年、[[美空ひばり]]のラストコンサートでの不死鳥をイメージした衣装をデザインした(美空ひばりは森英恵のアイテムなどを愛用していた)。1992年、[[バルセロナ五輪]]日本選手団の公式ユニフォームをデザインした。1993年、[[皇太子徳仁親王妃雅子|皇太子妃雅子]]の結婚の儀の際に着用した[[ローブ・デコルテ]](胸元を露出した女性の最高礼装)をデザインした。のちに[[島根県立国際短期大学]]の[[客員教授]]に就任した。[[公益財団法人]][[彫刻の森芸術文化財団]]理事を務めており、2012年7月、[[彫刻の森美術館]]と[[美ケ原高原美術館]]館長に就任。