削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目:
{{出典の明記|date=2014年7月}}
{{朝鮮の事物|
title=三別抄|
7 ⟶ 8行目:
katakana=サムビョルチョ|
}}
'''三別抄'''(さんべつしょう、[[朝鮮語|朝]]:<span lang=ko>삼별초</span>)は、[[高麗]]王朝の軍事組織。[[武臣政権|崔氏政権]](武臣政権)において、林衍(イム・ヨン)ら時々の実権を握った者の私兵として、しばしば政敵の暗殺や現代でいう所のクーデターのための武力として用いられた。後に、高麗のモンゴル軍の襲撃に際しては事実上高麗の国軍に発展したとも言われる。
 
==別抄とは==
'''「別抄」'''とは、別に組織された「抄」という意味である。「抄」とは没収することを意味し、反乱を起こした地域へ派遣され、当該反乱を鎮圧したのち、没収した財産を分け与えられる臨時の軍組織であった。すなわち初めは国内の反乱鎮圧などのための臨時編成される組織であったが、崔氏政権のもとで拡大されるとともに、続発する反乱により半ば常備軍化したことで、左別抄、右別抄の2部隊となり、のちに[[モンゴル帝国|モンゴル]]の捕虜から脱出した人員による「神義軍」を加えて「三別抄」と呼称されるようになった。
 
16 ⟶ 18行目:
崔忠献は自らの権力基盤を安定化させるために王権を弱体化させ、宿衛機関である都房(トバン)を組織して崔氏独裁体制を成立させる。次代の[[崔瑀]](チェ・ウ)は、騎馬部隊である馬別抄と夜間の巡察警戒のための夜別抄を組織した。これらの組織が統合され三別抄になる。三別抄は崔氏政権を維持するための[[私兵]]組織であったが、崩壊していた高麗の軍事制度に変わって事実上の国軍と化していくことになった。
 
[[モンゴル]]の諸民族を統一して成立した[[モンゴル帝国]]([[1271年]]に[[クビライ]]によって国号を[[元 (王朝)|大元]]とした)は、[[1219年]]に高麗と同盟を結ぶが、モンゴルが高麗に貢納の要求などをしたことで両国の関係が悪化し、1231年に[[モンゴルの高麗侵攻|第一次高麗侵攻]]が開始された。高麗軍は各地で苦戦を強いられ、[[1232年]]には[[開城]]を放棄し、[[漢江]]河口の[[江華島]]への遷都を余儀なくされる。その後もモンゴルによる断続的な侵攻が行われて高麗は衰退の一途をたどる中、[[金俊]](キム・ジュン)([[:ko:김준 (고려의 무신)|ko]])を主体に崔氏政権に対する[[クーデター]]が勃発、[[1258年]]に崔氏政権は滅亡する。この時、金俊に協力してクーデターの主力を担ったのは三別抄の[[朴希実]]らであった
 
政権奪取後には、金俊が新しい武臣政権の首班となったが、彼はモンゴルへの入朝を拒否に降伏<ref>金俊はモンゴルの使臣を殺し江華島からもっと遠くの島に入る計画まで立ててい。だその計画は高麗が既崔氏長い戦争によって疲弊であったため高麗王から頑強に拒絶される。</ref>、王以上続く武臣政権権力を振る回傀儡となったため、自身に敵対的な勢力を作ってしまう。これに国王[[元宗 (高麗王)|元宗]]は、{{仮リンク|[[林衍|]]([[:zh|:林衍|}}(イム・ヨン中国版]])ら不満勢力文臣と手集め結び、金俊からの政権剥奪を画策、[[1268年]]に三別抄を取り込んで金俊を暗殺した。
 
しかし、林衍らは実権の掌握を企図して元宗と対立、1269年に国王[[元宗 (高麗王)|元宗]]を廃して政権を掌握した。そうすると、元宗およびその子・[[忠烈王]]の要請を請けたモンゴル軍が林衍討伐のため進し、林衍は三別抄を動員して抵抗するが、その最中に急死した。[[1270年]]5月に林衍の子の[[林惟茂]](イム・ユム)([[:ko:임유무|ko]])らが国王側に雇われた三別抄によって暗殺され、ここに高麗王朝に実権を握り続けてきた武臣政権は崩壊した。
 
モンゴルの支援を受けた元宗は[[江華島]]から[[開城]]へ戻り、武臣政権の私兵集団として国内騒擾の元凶ともなってきた三別抄に対しては解散を命じた。これに対して、三別抄の裴仲孫(ペ・チュンソン)、夜別抄の盧永禧らは宗室の承化公・[[王温]]([[:zh:王溫 (承化侯)|中国版]])を推戴し、江華島を本拠に自立した。
 
6月、三別抄政権は西南の[[珍島]]に移り、城を作るなど、抗戦の準備を進めるとともに、[[全羅南道]]や[[慶尚南道]]に勢力を拡大していった。この間、[[1271年]]には日本の[[鎌倉幕府]]へ救援を求めたが、朝廷からも鎌倉幕府からも黙殺さに対し日本側がどのうように対応いる。は史料に残っていない。一方同年32、モンゴル帝国の中央機関・[[中書省]]いた官吏の話によると、三別抄はモンゴルから降を求められた際に、「駐屯する(蒙古)諸軍を撤収引き上げてくだい。そうすれ、然る後に帰順服従いたしまる」と言ったが、。蒙古の将軍[[忻都]](モンゴル将軍)その要請願いを聞かなと、今度は「我らがてくれません。私たちに[[全羅道]]を得て、そこに居住できるのであくだされば、直接蒙古朝廷に隷属直接したがいまと返事を送ったという<ref>『[[元史]]世祖本紀 [[至元 (元世祖)|至元]]八年三月己卯(1271年4月26日)条「中書省臣言:高麗叛臣裴仲孫乞諸軍退屯、然内附而忻都未其請、今願得全羅道以居、直隸朝廷。」</ref>
と返書をしたように、主要指導者である裴仲孫自身が、全羅道を領土としてモンゴルに隷属することを画策するなど、内部の権力闘争が表面化するようになり、自ら弱体化を招くことになった。
 
だが結局また、モンゴルとの交渉は失敗からすれば高麗王朝度々反乱を起こした忠誠の疑り、しい三別抄は徹底抗戦による武臣政権よりも、忠誠態勢篤い高麗王朝自身による朝鮮の間接統治固め望んだ<ref>『元史』叛臣裴仲孫、稽留使命めに負固不</ref>。そ条件は折り合するもなかった。この結果、1271年4月、皇帝[[クビライ]]は三別抄の討伐を命じ中に、珍島の三別抄は高麗の[[金方慶]](キム・バンギョン)、[[洪茶丘]](ホン・タグ)らモンゴル・高麗の連合軍に撃破され、残党が[[金通精]](キム・トンジョン)に率いられて耽羅([[済州島]])に落ち延びて命脈を保つが、[[1273年]]には耽羅島も攻め落とされて三別抄の乱は完全に鎮圧、三別抄の歴史も閉じることになる。三別抄の壊滅と同時にモンゴルは[[耽羅総管府]]を設置、ここにモンゴルによる高麗の征服事業は完了した
 
その後、高麗は元朝へ服属し、[[征東等処行中書省]]の統治下置かれた。新たに高麗国王となった[[忠烈王]]は{{要出典範囲|日本招諭のための使節派遣や、1274年からの日本侵攻([[元寇]]、[[文永・弘安の役]])に苦言を呈する蒙古諸将をさしおいて積極的に[[クビライ]]に侵攻を進言するとともに軍船兵糧、将兵を提供した|date=2014年3月}}。
 
== 三別抄のその後について ==
20世紀後半に、[[沖縄県]][[浦添市]]浦添ようどれで高麗瓦が発掘された。この瓦の文様は、三別抄が[[珍島]]に造営した龍蔵城跡から出土した瓦の文様と類似している。浦添ようどれの瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」という刻印があるが、[[癸酉]]年は1153年、1273年、1333年、1393年などが該当する。これが1273年だとすれば、三別抄が[[済州島]]で滅ぼされた年と同一であるため、三別抄の生き残りの人々が沖縄に逃避してきたのではと推測する研究者もいる<ref>[http://kinur.exblog.jp/7839215/ 珍島からイルボンへ] - 国士舘大学 文学部 考古・日本史学専攻 戸田研究室ブログ</ref>。
 
=== 元寇への影響について ===
韓国では、この三別抄の反乱によって元の戦力が弱体化するとともに侵攻を遅らせ、結果的に日本は占領を免れることができたという言説が広く流布されている。しかしながら上述の通り三別抄の乱はわずか3年余りで半ば自滅する形で壊滅しており、またモンゴル軍に対して大規模な被害を与えたという記録も確認されていない。
 
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
{{Reflist}}
 
==関連項目==
41 ⟶ 50行目:
[[Category:高麗]]
[[Category:済州特別自治道]]
[[Category:元寇]]