「カタルーニャ君主国」の版間の差分

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|元首等年代始2 = 1131年
|元首等年代終2 = 1162年
|元首等氏名2 = [[ラモン・ベレバランゲー4世]]
|元首等年代始3 = 1162年
|元首等年代終3 = 1196年
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'''カタルーニャ君主国'''または'''カタルーニャ公国'''({{lang-ca|Principat de Catalunya}}, [[アラン語]]: Principautat de Catalonha, {{lang-an|Prencipato de Catalunya}}, {{lang-es|Principado de Cataluña}}, {{lang-fr|Principauté de Catalogne}}, [[ラテン語]]: Principatus Cathaloniae)は、[[イベリア半島]]北東部にかつて存在した国家。現在は大半が[[スペイン]]の[[カタルーニャ州]]に属し、一部が[[フランス]]南部[[ピレネー=オリアンタル県]]となっている。「君主国」ないし「公国」という呼称については[[#「君主国」という呼称|後述する]]。
 
カタルーニャ君主国は、[[レコンキスタ]]時代に生じた[[スペイン辺境領]]の別々の伯爵領が、[[バルセロナ伯]]の支配下で連合したものである。1137年、[[アラゴン王国|アラゴン]]女王[[ペトロニラ (アラゴン女王)|ペトロニラ(パルネリャ)]]とバルセロナ伯[[ラモン・バランゲー4世]]の結婚により、[[アラゴン連合王国]]の一部と見なされるようになったが、実際はカタルーニャ君主国とアラゴン王国は対等な関係であった。ラモン・ベレバランゲー4世の子[[アルフォンソ2世 (アラゴン王)|アルフォンソ2世]]は、アラゴンではアラゴン王ではあったが、カタルーニャではバルセロナ伯アルフォンス1世を名乗った。
 
{{要出典範囲|カタルーニャ君主国という呼称は[[スペイン第二共和政]]時代まで使用されたが、君主制との歴史的関係を理由に使用されなくなった。現在でも時折使われることがある。|date=2012年7月|title=このままではカタルーニャ君主国という言葉が使われているのか使われていないのかわかりませんので、出典をお願い致します}}
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=== 1283年のカタルーニャ憲法 ===
[[ファイル:Usatges.png|thumb||100px|right|1413年に編纂されたカタルーニャ憲法]]
初めてのカタルーニャ憲法は[[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ(ジャウマ)11世]]時代の1283年にバルセロナで開催された[[:ca:Corts Catalanes|カタルーニャ議会]]([[コルテス (身分制議会)|コルテス]]と同義で、カタルーニャ語ではコルツ)から生まれた。この時、全ての法律の成立にコルツの承認が必要とされることが決められた。1192年以降から行われているコルツは、最初カタルーニャ各地を巡回して開催された。最後の憲法は1702年の議会によって発布された。カタルーニャの憲法及び他の権利の編集は、ローマ法典の伝統にならった。13世紀からの歴史を持つ[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ]](議会の常設代表部。現在のカタルーニャ自治州政府もジャナラリターを名乗る)は、ヨーロッパ大陸最初の政府の一つであった。やがてジャナラリターは、王が不在であったり、戦争のような非常事態になれば、君主に代わってカタルーニャを統治した。
 
=== 中世以後のカタルーニャ ===