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'''楊 暕'''(よう かん、[[585年]] - [[618年]])は、[[中国]]の[[隋]]の[[煬帝]](楊広)の次男。[[字]]は世朏。小字は阿孩。母は[[煬愍蕭皇后 (隋)|蕭皇后]]。元徳太子[[楊昭]]の同母弟。
 
== 経歴 ==
容貌や立ち居振る舞いが美しく眉目も秀麗で、幼い頃から祖父の[[楊堅|文帝]]に可愛がられた。[[開皇]]年間に予章王に立てられ、食邑1000戸を与えられた。成長すると[[経書]]や[[史書]]をよく学び、特に騎射に巧みであったという。初め内史令となり、[[仁寿 (隋)|仁寿]]年間に揚州総管沿淮以南諸軍事を拝した。[[604年]]、父の煬帝が即位すると、斉王に封じられ食邑を4000戸に増やされた。[[606年]]([[大業]]2年)、東都[[洛陽市|洛陽]]が完成して煬帝が初めて入城した時、儀仗隊の軍導を取り仕切った。まもなく予州牧となるが、にわかに兄の皇太子楊昭が病没したため、朝野はみな次の跡継ぎは楊暕がなると期待した。煬帝は吏部尚書の[[牛弘]]に命じて楊暕の配下を選ばせ、公卿の子弟の多くが任命された。翌[[607年]]、雍州牧に転じ、すぐに河南尹・開府儀同三司となった。楊暕は兄楊昭の配下だった2万人すべてを与えられるなど、父の寵愛もますます大きくなった。おばの[[楊麗華|楽平公主]]以下、親戚たちも争って彼に礼を尽くし、百官も拝謁を求めて道路が混み合うほどであったという。
 
このような厚遇から、楊暕は新たな皇太子は自分に違いないと思って驕慢になり、喬令則・劉虔安・裴該・皇甫諶・庫狄仲錡・陳智偉といった小人を近づけて声色や遊猟にふけるようになった。配下の喬令則らも楊暕の威光を嵩に若い娘や名馬などを奪い取るなど、しばしば不法な行いをした。さらに楽平公主が煬帝に柳氏の美しい娘を進め、煬帝が返事をしないでいたところ、楽平公主が楊暕に娘を進め、楊暕のものとなってしまうという事が起き、父の煬帝の不快を招いた。また煬帝が汾陽宮で狩りをした時、楊暕の配下が煬帝の従官を遮って麋鹿([[シフゾウ]])を大量に狩ったので、怒った煬帝は楊暕の過失を調べるようになった。