「源行家」の版間の差分

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甥の[[源頼朝]]に決起を促したのも行家であるが、頼朝の麾下には入らず独立勢力を目指したため不和となる。[[養和]]元年([[1181年]])、[[尾張国]]の[[墨俣川の戦い]]、[[三河国]][[矢作川]]の戦いで二回に亘り平家方と交戦。壊滅的な敗北を喫し、頼朝のもとに逃れた。しかし、頼朝に所領を求めるも拒否されたため、以降は甥の[[源義仲]]の幕下に走った。義仲の下では[[能登国]]・[[越中国]]国境での[[志保山の戦い]]に参加している。
 
[[寿永]]2年([[1183年]])、義仲とともに入京、[[後白河天皇|後白河院]]の前では義仲と序列を争い、相並んで前後せずに拝謁した。朝議の結果、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、[[従五位|従五位下]]・[[備後国|備後守]]に叙任されるが、義仲と差があるとして不満を述べ、すぐに[[備前国|備前守]]に遷任する。山村育ちで無骨な義仲が法皇や貴族達の不興を買う一方、近畿育ちで弁舌が立つ行家は院内にいりびたり、法皇の双六の相手などをして取り入った。しかしほどなく義仲とも不和となり、身の危険を感じて、平家討伐に名を借りて京を脱出。[[播磨国]]で[[平知盛]]・[[平重衡|重衡]]軍との[[室山の戦い]]でまたしても敗北を喫し、さらに義仲が派遣した[[樋口兼光]]にも敗れて行方不明となった。生来交渉力があリ、扇動者としての才と権謀術数に長けてはいたが、軍略面での才能には乏しかったようである<ref>長村[2011: 37]では、行家は「軍事指揮官としては無能だが、工作員としては有能」であったと評価されている。</ref>。
 
義仲が頼朝の派遣した[[源範頼]]・[[源義経|義経]]の軍勢に討たれた後、行家は[[元暦]]元年([[1184年]])2月に院の召しによって帰京している。その後の鎌倉源氏軍による平家追討には参加しておらず、甥の義経に接近しながらも鎌倉に参向しようとはせず、半ば独立した立場をとって[[和泉国]]と[[河内国]](河内源氏の本拠地)を支配していた。8元暦2年([[1185年]])8月、頼朝が行家討伐を計ると、行家は[[壇ノ浦の戦い]]後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の[[院宣]]を受け、「[[国地頭|四国地頭]]」に補任される(義経は「九国地頭」)。しかし行家らに賛同する武士達は少なく、頼朝が鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、11月3日、行家・義経一行は都を落ちた。途中大物浦で暴風雨にあって西国渡航に失敗した後は、次第に追い込まれ、逃亡の末に[[和泉国]]近木郷の在庁官人・日向権守清実の屋敷(のちの[[畠中城]])に潜伏する。翌年の5月、地元民の密告により露顕し、[[北条時定 (北条時政の甥)|北条時定]]の手兵によって捕らえられ、長男・[[源光家|光家]]、次男・[[源行頼|行頼]]とともに斬首された。
 
== 子孫 ==