「イタリア人」の版間の差分

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===歴史===
====ローマ時代====
「民族としてのイタリア人」が初めて歴史上に現れるのは、[[古代ローマ]]時代にまで遡る。共和制中期、イタリア全土を統合する国家となった[[共和政ローマ|ローマ共和国]]は他のイタリア居住者を尊重しつつも、自国の中核を成す[[ローマ人|ローマ民族]]に関しては従来通り都市国家時代の所領に住まう民のみに限定し、あくまでも都市民族としての概念を維持していた。このことに不満を抱いた他のイタリア居住者の反発によって一度は状況を改善するための改革が試みられたものの、最終的には改革を主導した[[護民官]]マルクス・リヴィウス・ドゥルーススが謀殺されたことで頓挫。平和的解決を絶望視した[[ローマ市民権|ローマ国籍]]を持たない非ローマ系イタリア居住者の内、ピノチェント族・パエリーノ族・ヴィスティーノ族・マルッキーノ族・マルシ族・フレンターノ族・サムニウム族・ヒルピーノ族など八部族が反ローマを旗印に新国家「イタリア」を建国、都を[[コルフィニウム]]に定めた。
 
後の世において[[同盟市戦争]]として知られるこの大反乱は、[[執政官]]ルキウス・ユリウス・カエサルがイタリア全居住者に[[ローマ市民権|ローマ国籍]]を付与し、全イタリア人をローマ民族に統合することで終息した。この戦いの後、目的を終えた「イタリア」は解体されるが、上述の全イタリア人への国籍付与によってそれまで都市民族の枠に留まっていたローマ民族はイタリア居住者全体を統合する地域民族へと発展を遂げ、以降、帝政ローマ後期に[[カラカラ]]帝が全ローマ領民へ国籍を付与し、地中海世界の居住者全てを統合・代表する世界民族へ更に発展するまでの長きに渡って「イタリア居住者を統合する民族」であり続けた。故に近世以降、イタリア・ナショナリズムが勃興すると、イタリアの民族主義者達は共和制中期から帝政中期まで(論者によってはアントニヌス勅令後も含む)ローマ民族が古代における実質的な「イタリア民族」であったと考え、ローマ文明に自民族の根源的ルーツを求めた者([[ジュゼッペ・マッツィーニ]]の青年イタリア党にもその端緒が伺える)が多かった。
 
上述のカラカラ帝による全領土住民への国籍付与によってローマ民族は地域民族から世界民族へと飛躍を遂げたが、それは同時にローマ民族が「イタリアの民族」という意味合いを大きく失うことを意味していた。更に統一[[ローマ帝国|ローマ]]の分裂と、イタリア地方が属した[[西ローマ帝国]]の崩壊がそうしたイタリア居住者のアイデンティティの喪失に拍車を掛けた。
 
====中世時代====
西ローマ崩壊後、[[ゲルマニア]]地方出身の諸民族(敢えて本項では[[ゲルマン民族]]とは呼称しない<!--なぜ?-->)が豊かな土地を求めてイタリア半島へ侵入を試みてた。西ローマを滅ぼした傭兵隊長[[オドアケル]]を倒しイタリアを征服した東ゴート民族の王は、オドアケルの西ローマ皇帝位返還によってローマの統一帝としての地位を得ていた[[東ローマ帝国|中世ローマ]]皇帝よりイタリア総督の地位を与えられ、[[東ゴート王国]]を開いた。この際入り込んできたゴート人の数は約30万程度と言われ、原住のイタリア居住者からすれば圧倒的に人数が少なかったこともあって権力基盤は弱く、東ゴートの王は「イタリア人の王(rex Italiae)」と名乗らず、単に「rex(王)」と名乗った。東ゴート人の統治が短命に終わったこともあり、ほとんどのイタリア居住者は従来通りローマ民族に属していると考えていた。
 
中世ローマ帝国との戦争で滅んだ東ゴートに次いでイタリアを征服したのは[[ランゴバルド人|ランゴバルド民族(ロンバルド)]]民族であり、彼らはゴート人同様数十万人程度の数で原住者に比べ圧倒的に数は少なかったため、積極的にローマ時代の文化や法律を吸収し、自らの言語よりも積極的に[[ラテン語]]と[[イタリア語]]を用い、混血を奨励することで自らローマ民族への同化を図った。結果、ゴート王国に比べ同民族による統治は安定し、[[フランク王国]]によって[[ランゴバルド王国]]が滅ぼされるまで支配は続き、現在も[[ロンバルディア州]]や[[ロマンス諸語]]の[[ロンバルド語]]などに影響を残す。
 
[[フランク王国]]による支配はランゴバルド王国に脅威を抱いた[[ローマ教皇]]の要請によって、ランゴバルド王国が滅ぼされた後に始る。自らの庇護を求めたローマ教皇は[[カール大帝]]に独断で西ローマ帝位を与え(なお明らかな越権行為であるこの戴冠をローマ教皇は「西ローマ帝国はコンスタンティヌス帝の代に贖罪として教会に寄進された。故に戴冠権も教会にある」とした。しかしその証拠として提示されていた[[コンスタンティヌスの寄進状]]は現在では教会による[[偽書]]と判明している。)、これによってフランク・ローマ帝国の領土として統治される。フランクによる支配は各地方の有力者に[[爵位]]を与えての地方分権的な方法であったこと、フランク帝国自身がローマ帝国の後継を自負したことなどから、従来通りローマ民族に属すると考えるイタリア居住者がほとんどであった。
 
フランク帝国が崩壊しイタリアが政治的空白に陥ると、北部は王位を争う貴族の領土が林立し、中部は教会の私有地と化し、南部は教会の後ろ盾を得た[[ヴァイキング]]が[[アラブ人]]を追い払い王政国家が築かれた。これ以降、サルデーニャ王国による統一に至るまでの長きに渡って、多少の勢力変動はりつつもイタリアは政治的分裂の渦中で彷徨さまよい続けることとなり、イタリアに居住する人々も次第により小さな集団、即ち郷土愛に立脚した地方民族主義へと傾斜していった。
 
====ルネッサンス====