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明治時代中期に入ると、[[1883年]]、[[ロベルト・コッホ]]がコレラ菌を発見し、予防や治療への道筋が徐々に立てられるようになったこと、近代的な教育システムにより[[医師]]や[[看護婦]]の充足が見られた。避病院は、徐々に医療機関としての機能を発揮するようになり、[[赤痢]]や[[腸チフス]]など他の伝染病も守備範囲に収めて常設化していった。
 
[[東京府]]の[[東京都立墨東病院|本所]]・[[東京都立駒込病院|駒込]]・[[東京都保健医療公社大久保病院|大久保]]の3病院は1886年11月<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2944127/2 「告示第60号」『官報』1886年7月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>・[[東京都立駒込病院|駒込]]<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2944154/2 「告示第68号」『官報』1886年8月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>・[[東京都保健医療公社大久保病院|大久保]]<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2944164/23 「告示第71号」『官報』1886年8月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>の3病院は1886年11月にそれぞれ東京府○○病院の形で常設化の上改称されたが、これは[[東京方言|東京弁]]では避病院('''ひ'''びょういん)が「死病院('''し'''びょういん)」になってしまい、紛らわしいことも一因であったと言われる<ref>*『[[東京都立広尾病院]]100年の歩み』東京都立広尾病院、1995年、20頁</ref>。熊本の場合は明治12年8月5日に飽田郡古町に病院を設立、二本木避病院と称したが、明治29年に熊本市九品寺(くほんじ)に熊本市立避病院を設立、大正3年に熊本市立白川病院と改称。実質は伝染病病院であった。<ref> 『新熊本史 通史編 第5巻近代 1』PP.998-999</ref>
 
[[1897年]]3月、[[伝染病予防法]]が制定されると、避病院は法的に'''伝染病院'''(でんせんびょういん)として位置づけられる法律の庇護も受けられるようになったが、避病院の名は俗称として長く用いられた。その後も伝染病院は、[[スペイン風邪]]などの流行時にも機能を見せ、徐々に総合病院化して行く。[[第二次世界大戦]]が終わり、[[公衆衛生]]が飛躍的に向上すると伝染病患者は激減。[[1960年代]]までに多くの伝染病院は、隔離病棟を廃止したり一般病棟を拡充するなどして[[総合病院]]となり発展的解消を遂げた。