「徐州市」の版間の差分

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|subdivision_name1 = 江蘇
|leader_title = 市委書記
|leader_name = [[曹新平]]
|leader_title1 = 市長
|leader_name1 = [[朱民]]
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[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]中期には[[宋 (春秋)|宋]]や[[楚 (春秋)|楚]]などにより彭城は争奪された。[[秦|秦朝]]が成立すると'''彭城県'''が設置されている。秦末になると過酷な政治に対する民衆反乱が発生、現在の江蘇省一帯は農民起義の中心地となった。[[紀元前209年|前209年]]、下相(現在の[[宿遷市]])の住民[[項羽]]、[[項梁]]をはじめ、沛(現在の徐州市・[[沛県]])の住民[[劉邦]]らは彭城の近くの大沢郷(現在の[[宿州]])で起こった[[陳勝・呉広の乱]]に呼応し秦に反旗を翻した。秦の滅亡後、項羽は諸侯の連合軍を率いて「西楚霸王」と称し、楚の故地で故郷に近い彭城(徐州)を都に定め、諸侯を各地に封じた。[[紀元前206年|前206年]]、漢王劉邦は挙兵し西楚打倒を目指し進軍。一年後、不満を持つ諸侯をまとめ60万の大連合軍を結成し項羽の都の彭城を占領することに成功したが、項羽は救援のために引き返し、[[彭城の戦い]]において3万の精鋭で60万の漢の連合軍を大敗させ劉邦の一族を捕虜とすると言う古代中国でも例のない大勝利を収めた。
 
その戦いで劉邦は追い詰められたが、配下の[[韓信]]らの後方撹乱などで窮地を脱し再び楚に進撃、韓信が諸侯を一掃させ結束を高めた。[[紀元前202年|前202年]]、漢軍は[[下邳]](現在の[[邳州市]])を占領し、彭城を守る将軍・[[項佗]]は投降した。項羽軍はこの後に[[垓下の戦い]]で四面楚歌を受けてほとんどの兵士が逃亡、ほぼ壊滅し、項羽は烏江で自害し[[楚漢戦争]]は劉邦が勝利した。
 
=== 前漢の徐州 ===
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[[隋|隋朝]]が成立すると徐州け経由して[[大運河]]が建設され南北を結ぶ物流の要衝となった。[[大業]]年間には'''彭城郡'''と改称されたが、[[唐|唐朝]]が成立すると[[621年]]([[武徳]]元年)に再び'''徐州'''と改称された。その後[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)に'''彭城郡'''、[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)に再び'''徐州'''と改称されている。唐末の[[ホウクンの乱|龐勛の乱]]([[868年]])では反乱軍が彭城で唐軍と対峙している。[[宋 (王朝)|宋代]]には[[文人]]の蘇軾が徐州太守に任ぜられ、如黄楼、快哉亭、放鶴亭、東坡石床、[[蘇堤]]など今日に残る多くの歴史建造物を作っている。北宋末期になると[[金 (王朝)|金]]の将軍、[[粘罕]]は軍を率いて徐州に侵攻している。
 
[[元 (王朝)|元代]]になると[[1348年]]([[至正]]8年)に'''徐州路'''に昇格したが、[[1352年]](至正12年)に'''武安州'''に降格されている。元末になると[[芝麻李]]は徐州の乱を起こし、元朝に対抗している。その後[[朱元璋]]は[[徐達]]を派遣して北伐を開始、元軍を追放して徐州を占領している。その後[[明|明朝]]が成立すると再び'''徐州'''が設置された。[[清|清代]]になると[[1733年]]([[雍正]]11年)に'''徐州府'''が設置されている。
 
=== 近代 ===
西洋[[列強]]の中国への進出が進むにつれ、徐州からも外国勢力との闘争に身を投じる人物が多く現れた。[[アヘン戦争]]の前後に[[イギリス]]に対して抵抗した[[臧紆青]]や、[[義和団]]に参加した多くの人々などである。また[[辛亥革命]]の時期にも多くの徐州人が参加した。
 
[[1912年]]([[中華民国暦|民国]]元年)、[[中華民国]]が成立すると徐州府は廃止され銅山県が置かれた。一方、[[1908年]]には[[天津市|天津]]-[[南京市|南京]]間を通る津浦鉄道(現在の[[京滬線|京滬鉄道]])の徐州付近区間が着工し、[[1912年]]に開通した。安徽省以南はイギリス資本で建設されたため、徐州もイギリスの影響が強まる。また[[1916年]]、海州(現在の[[連雲港]]市)から西の[[西安]]、[[蘭州]]に至る[[隴海線|隴海鉄道]]の開封-徐州区間が開通し、順次海側へ伸びていった。こうした中、[[五四運動]]が徐州の学生の間でも起こり、また[[中国共産党]]の地方組織も作られ、隴海鉄道建設のストライキなどを起こした。
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== 文化 ==
[[ファイル:汉兵马俑.jpg|thumb|250px|龜山漢墓から出土した、漢代の[[兵馬俑]]]]
龜山漢墓や獅子山楚王陵など、漢の時代に楚国の王や諸侯らの残した墓が市街周辺に多くある。市街東部の獅子山からは[[1984年]]に数千体の[[兵馬俑]](西安の秦の兵馬俑よりは小型)が発見され、その後前漢時代の第三代楚王・[[劉戊]]の墓陵が発見された。その他、楚の王家や貴族などの、墓碑や祠堂の壁石に刻まれた「漢画像石」と呼ばれるレリーフも多く出土し、博物館などで公開されている。
 
また北宋時代の蘇軾が残した建築物も多い。蘇軾が徐州に赴任した後、当時すぐ横を流れていた黄河が氾濫したが、彼は民衆を指揮し、臨時の堤防を設計し築いてこれを食い止めた。その後築造した恒久的な堤防が蘇堤である。杭州の西湖にある蘇軾の作った同名の堤とは別)