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=== マルクス主義者として ===
[[File:Japanese Communist Party rubber stamps used by Hajime Kawakami.jpg|thumb|left|100px|党員時代に河上が使った共産党のゴム印]]
[[1908年]](明治41)、[[田島錦治]]に請われ、京都帝大の講師となって以後は研究生活を送る。[[1912年]]には、これまでの自己の研究を総括した論文集『経済学研究』を執筆する。翌1913年には法学博士の学位を授与される。[[1913年]]([[大正]]2)から[[1915年|15年]]にかけて2年間のヨーロッパ留学に赴く。帰国後、教授。[[1916年]](大正4)から新聞に『貧乏物語』を連載し、翌年出版。[[大正デモクラシー]]の風潮の中、貧困というテーマに経済学的に取り組んだ書はベストセラーになった。中には[[マルクス経済学]]の紹介もあるが、結論は、貧乏をなくすには金持ちが奢侈をやめることだというものだった。しかし、その結論に対し、[[福田徳三]]や[[社会主義]]者の[[堺利彦]]は「現実的ではない」と痛烈に批判している。
 
[[1920年]](大正9)9月に京大で経済学部長になる。その後、マルクス経済学に傾倒し、研究を進め。[[1921年]](大正10)河上が執筆した論文「断片」のため、雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』は発売禁止となるが、この論文はのちに[[虎の門事件]]を起こす[[難波大助]]に影響を与えたという。[[1922年]]、労農派の[[櫛田民蔵]]が河上のマルクス主義解釈は間違っていると痛烈に批判した。河上は批判が的を射ていることを認め、マルクス主義の真髄を極めようと発奮する。『[[資本論]]』などマルクス主義文献の翻訳を進め、河上の講義は学生にも大きな影響を与えた。[[1928年]](昭和3)、京都帝大を辞職し、[[大山郁夫]]のもと[[労働農民党]]の結成に参加。[[1930年]](昭和5)、京都から東京に移るが、やがて労働農民党は誤っていると批判し、大山と決別。雑誌『改造』に『第二貧乏物語』を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれた。
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== 関連項目 ==
* [[京都学連事件]]
* [[作田荘一]]
* [[小島祐馬]]
* [[河田嗣郎]]
* [[伊波普猷]]
* [[恒藤恭]]
* [[近衛文麿]]
* [[木戸幸一]]
* [[水田三喜男]]
* [[水谷長三郎]]
* [[宇都宮徳馬]]
* [[渡瀬譲]]
* [[高山義松方]]
* [[宇都宮徳馬]]
* [[大久保利謙]]
* [[古市春彦]]
* [[高山義三]]
 
== 外部リンク ==