「赤堀川 (茨城県)」の版間の差分

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== 概要 ==
[[徳川家康]][[江戸]]入府後行われた[[利根川東遷事業]]にて、[[元和 (日本)|元和]]7年([[1621年]])に[[新川通 (埼玉県)|新川通]]が開削された。利根川の本流は[[栗橋町|栗橋]]付近で[[渡良瀬川]]と合流することとなり、[[権現堂川]]を通り[[江戸川]]を流れることとなった。また合わせて栗橋付近平常水位を上げることに成功したので、渇水期でも常陸川に一定の流量を確保し、安定した水運を可能にさせる意図があり、同年より赤堀川の掘削が始まった。しかし、古河市南部の[[大山沼]]([[向堀川]])と[[釈迦沼]]([[女沼川]])との間の[[分水嶺]]をなしていた[[洪積台地]]([[関東ローム]]層)の微高地<ref>遠藤ほか、「関東平野の沖積層とその基底地形」日本大学文理学部研究紀要。</ref>を掘削する必要があり、その後の[[寛永]]12年([[1635年]])の増削工事でも掘削量が不足し、常時通水を得るには至らなかった<ref>分水嶺となる洪積台地の微高地約1kmを開削する必要があり、結果的に完成までに年月を要したが、工事自体の難度は当時でもそれほど高いものではなかった。</ref>。なおこの間に、赤堀川への水量増強を意図して、五霞町川妻の南を通る佐伯堀(権現堂川の水を利用)の開削も行っている
 
同年より赤堀川の掘削が始まり、意図として上記の付近の水を流し、常陸川へ渇水期でも一定の流量を確保し、安定した水運を可能にさせる目的があった。
[[承応]]3年([[1654年]])、さらに増削して赤堀川をようやく常時通水させ常陸川へ流すことができた<ref>大山沼と釈迦沼との間の微高地を開削し赤堀川が流れ、元々は地続きであった現在の五霞町前林・釈迦と古河市前林・釈迦とを南北に分けている。</ref>。この時の川幅はおよそ10[[間]](18[[メートル]])といわれる。これにより[[銚子市|銚子]]から常陸川・赤堀川を遡り、栗橋から権現堂川・江戸川を[[経由]]し江戸へと至る水運路の動脈が完成する。そして[[寛文]]5年([[1665年]])、権現堂川・江戸川と、赤堀川・常陸川をつなぐ[[逆川 (幸手市)|逆川]]が開削され、[[関宿町|関宿]]から江戸川への水路が開かれ、水運路の整備がほぼ完成した。
 
しかし、古河市南部の[[大山沼]]([[向堀川]])と[[釈迦沼]]([[女沼川]])との間の[[分水嶺]]をなしていた[[洪積台地]]([[関東ローム]]層)の微高地<ref>遠藤ほか、「関東平野の沖積層とその基底地形」日本大学文理学部研究紀要。</ref>を掘削する必要があり、その後の[[寛永]]12年([[1635年]])の増削工事でも掘削量が不足し、常時通水を得るには至らなかった<ref>分水嶺となる洪積台地の微高地約1kmを開削する必要があり、結果的に完成までに年月を要したが、工事自体の難度は当時でもそれほど高いものではなかった。</ref>。なおこの間に、赤堀川への水量増強を意図して、五霞町川妻の南を通る佐伯堀(権現堂川の水を利用)の開削も行っている。
その後、赤堀川・常陸川の改良とともに、利根川の水を流す流量の比率が高まり、[[昭和]]3年([[1928年]])には権現堂川が廃され、現在赤堀川・常陸川は利根川の本流となっている。
 
[[承応]]3年([[1654年]])、さらに増削して赤堀川をようやく常時通水させ常陸川へ流すことができた<ref>大山沼と釈迦沼との間の微高地を開削し赤堀川が流れ、元々は地続きであった現在の五霞町前林・釈迦と古河市前林・釈迦とを南北に分けている。</ref>。この時の川幅はおよそ10[[間]](18[[メートル]])といわれる。これにより[[銚子市|銚子]]から常陸川・赤堀川を遡り、栗橋から権現堂川・江戸川を[[経由]]し江戸へと至る水運路の動脈が完成する。そして[[寛文]]5年([[1665年]])、権現堂川・江戸川と、赤堀川・常陸川をつなぐ[[逆川 (幸手市)|逆川]]が開削され、[[関宿町|関宿]]から江戸川への水路が開かれ、水運路の整備がほぼ完成した。
 
その後、赤堀川・常陸川の改良とともに、赤堀川へ利根川の水を流す流量の比率が高まり、[[昭和]]3年([[1928年]])には権現堂川が廃され、現在赤堀川・常陸川は利根川の本流となっている。
 
== 脚注 ==