「伊東隆治」の版間の差分

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[[1947年]](昭和22年)の[[第1回参議院議員通常選挙]]に[[全国区制|全国区]]から出馬(無所属)、下位ながら任期3年議員として初当選を飾った。直後に[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]入りし、[[芦田内閣]]で[[外務省|外務]][[政務次官]]に就任。更に[[国民民主党 (日本)|国民民主党]]→[[改進党]]と党籍を移すが、[[第2回参議院議員通常選挙|1950年参院選]]では落選し、[[第25回衆議院議員総選挙|1952年の衆院選]]([[東京都第3区 (中選挙区)|東京3区]])・[[第3回参議院議員通常選挙|翌1953年の参院選]]([[鹿児島県選挙区]])でも政界復帰を果たせなかった。
 
[[1953年]](昭和28年)に[[奄美群島]]が本土復帰し、それに伴う[[奄美群島選挙区]]新設に因る[[補欠選挙]]が1954年(昭和29年)2月に行われ伊東も出馬したが、伊東・[[保岡武久]](前[[鹿児島県]][[副知事 (日本)|副知事]])・金井正夫・宗前清(いずれも元代議士)・泉芳朗(前[[名瀬市|名瀬]][[市長]])と有力候補が居並ぶ中で法定得票数を得た候補が1人も出なかったため再選挙に追い込まれた。4月の再選挙では保岡に次ぐ次点に終わったが、翌[[1955年]](昭和30年)の[[第27回衆議院議員総選挙]]で保岡を破り衆院初当選を果たす([[日本民主党]])。
 
その後は奄美群島区の1議席を保岡と争うことが続き、[[第28回衆議院議員総選挙|1958年の総選挙]]・[[第29回衆議院議員総選挙|1960年の総選挙]]では保岡に敗れたものの、[[第30回衆議院議員総選挙|1963年の総選挙]]・[[第31回衆議院議員総選挙|1967年の総選挙]]で連続して当選を果たしている。[[自由民主党]]では[[周山会|佐藤派]]に属し、党政策調査会外交副部長を歴任。また[[第3次池田内閣 (改造)|第3次池田改造内閣]]から[[第1次佐藤内閣]]にかけて[[経済企画庁|経済企画]]政務次官、[[第1次佐藤内閣 (第2次改造)|第1次佐藤第2次改造内閣]]から[[第1次佐藤内閣 (第3次改造)|第3次改造内閣]]・[[第2次佐藤内閣]]にかけて[[自治省|自治]]政務次官を務めている。