「京橋 (岡山市)」の版間の差分

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== 沿革 ==
=== 京橋の由来 ===
京橋は、かつて現在より少し川上にあり、大橋と呼ばれていた。[[安土桃山時代]]に、大橋のたもとに町ができ、その町は大橋町と呼ばれるようになった。この町は、京や大坂の品を扱う店が多かったため、京町と改名され、それに伴い橋も京橋と改名された。[[1593年]]([[文禄]]2年)、京橋は現在の位置に架け替えられた。それに伴い、元の京橋が「古京橋」となり、町名も「古京町」に改められた。
 
=== 江戸期の京橋 ===
江戸期の京橋は、長さは68間(約124m)、幅は4間(約7.3m)であり、『国富家文庫』によると[[1673年]]([[延宝]]元年)から幕末までに6回かけ替えられた。京橋の西端には大門があり、門は柱の間隔が1丈3寸(約3.1m)であった。国富家文書によると、夜間(およそ晩の8時頃から朝の4時ごろ)は、閉門し、その間は脇の小門をくぐって出入りしていた。なお、もと京橋の門が、現在岡山市南区小串のある民家の門として再利用されている。門の南に接して藩の触れを掲げた高札場があった。寺の開帳の知らせなどの辻札も、藩の許可を得て立てる場所もあったとされる(真光院文書)。岡山藩は城下町郭内の入り口に位置する京橋の美観維持に努めていた。干し物を禁止し、商売も厳しく制限し、橋守を置いて毎日欄干を掃除させ、朝6時ころには橋の上に寝ているものを追い払っていた。「評定留」(池田家文庫)の[[宝永]]4年8月19日([[1707年]]9月15日)の項には、岡山藩の町奉行が、「京橋の上で夕涼みをする町人が多く、見苦しいので、番人を付けて追い払わせていたが、秋風も立って人が少なくなった。もう番人をやめてもよろしいでしょうか」と伺いに対し、家老が「そうせい」と答えた記録がある。