「生島遼一」の版間の差分

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== 来歴・人物 ==
[[大阪府]]生まれ。1929年[[京都帝国大学]]文学部仏文科卒、[[神戸商業大学]]予科講師、教授、戦後47年[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]教授、49年京大教養部教授、[[1964年]]京大文学部教授を務め、[[1968年]]定年退官<ref>柿谷浩一編「年譜」『春夏秋冬』講談社文芸文庫</ref>。若くして[[スタンダール]]の『[[赤と黒]]』を翻訳。以来、[[バルザック]]、[[フローベール]]、[[プルースト]]ら19世紀[[フランス文学]]の作家を紹介し、[[ラファイエット夫人]]の「クレーブの奥方」、[[フローベール]]の「感情教育」では文章の美しさで翻訳の世界に新境地を開く。その他、[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール|ボーヴォワール]]『第二の性』の訳でも知られ、[[桑原武夫]]、[[伊吹武彦]]とともに京大フランス学を形成した。仏文学者と翻訳家、ふたつの顔で知られているが、[[日本文学]]評論や文芸エッセイも著した。作家でやはり京大教授だった[[山田稔 (小説家)|山田稔]]が「端正と気品が文学のモットーだった」と語る一方で、好き嫌いが激しく時にかんしゃくを起すなど、自ら認める我がままな一面もあった。当時、[[国際日本文化研究センター]]の教授だった[[杉本秀太郎]]は「昔気質の学者でした」と語り、晩年まで、自ら[[能]]の舞台にも立つ「第三の顔」も有名で、芸術家肌を地でゆく学者でもあった。[[1981年]]、[[日本芸術院賞]]受賞。1991年8月23日、86歳で死去。
 
== 著書 ==