「防共協定」の版間の差分

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日本はあくまでこの協定をソ連に対抗するものと考えており、イギリスをこの協定に参加させようとしたが、イギリス側に拒否されている{{sfn|酒井哲哉|1990|pp=2299}}。[[重光葵]]のように[[防共]]をキーワードに国際同盟を構築しようとする者もいたが{{sfn|酒井哲哉|1990|pp=2329}}、大きな動きにはならなかった。
 
[[1937年]](昭和12年)11月6日、[[イタリア王国]]の参加により[[日独伊防共協定]]に発展した。このイタリアの参加により、協定の反英・反西欧的正確はさらに強まった{{sfn|三宅正樹|2000|pp=47}}。1938年、リッベントロップは外相に就任し、以降のドイツ外交の主務者となった。しかし反英的でソ連と組むことも辞さないリッベントロップおよびドイツ外務省・海軍と、どちらかといえば親英的で、ソ連打倒を考えていたヒトラーという二つの外交路線が存在していた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=119}}。日本の各部首脳ヒトラーの意志のみを重視しており、後の独ソ提携で衝撃を受けることになる{{sfn|三宅正樹|2000|pp=119-120}}。
 
日本陸軍は防共協定を実質的な軍事同盟に発展させることを望んでおり、同盟によってイギリスおよびソ連の[[日中戦争]]介入を防ごうと考えていた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109}}。1938年7月3日、[[板垣征四郎]]陸軍大臣は「時局外交に関する陸軍の希望」という文書を内閣([[第2次近衛内閣]])に提出した{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109}}。7月19日の[[五相会議]]において「日独及ビ日伊間政治的関係ニ関スル方針案」が採択され、「(ドイツに関しては)防共協定ノ精神ヲ拡充シテ之ヲ対『ソ』軍事同盟ニ導キ」という方針が確認されている{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109}}。このドイツとの同盟問題は当時「防共協定強化問題」と呼ばれているが{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109}}、これは同盟に反発する国内の抵抗を抑えるための方策であった{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109-110}}。しかしソ連のみを主敵とする日本側と、イギリス・フランスも敵と考えるドイツ側との構想の違いがあった{{sfn|三宅正樹|2000|pp=110}}。同盟成立を重視する日本陸軍は英仏を敵に加えるよう主張していたが、[[イギリス帝国|大英帝国]]の影響を怖れる海軍及び外務省はこれに反対していた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=110-111}}。
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==協定の延長と消滅==
1941年11月25日には期限切れを迎える協定の5年間延長を定めた条約がベルリンで調印されているが、秘密議定書については廃止されている<ref>{{アジア歴史資料センター|A03033463400|共産「インターナショナル」ニ対スル協定ノ効力延長ニ関スル日本国、「ドイツ」国、「イタリア」国、「ハンガリー」国、満洲国及「スペイン」国間議定書締結及右協定ノ秘密附属協定ノ廃止ニ関スル日本国、「ドイツ」国間秘密公文交換ノ件}}、{{アジア歴史資料センター|B13090857800|第二編 日本国ト枢軸諸国トノ条約関係/第三 防共関係}}</ref>。また同日には[[第二次世界大戦]]で枢軸側に参戦した[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]、[[フィンランド]]、[[ルーマニア王国]]、[[スロバキア共和国 (1939年-1945年)|スロバキア共和国]]、[[クロアチア独立国]]、ドイツの占領下に置かれた[[デンマーク]]が協定参加し、また日本の指導下にあった中華民国([[汪兆銘政権]])も、11月25日時点での協定参加を宣言する公文を12月31日に日本政府に対して送付している<ref>{{アジア歴史資料センター|B13090857800|第二編 日本国ト枢軸諸国トノ条約関係/第三 防共関係}}</ref>。
 
1943年にコミンテルンは解散しているが、協定自体には何の影響も及ぼさなかった。協定締結国は次々と戦争から離脱し、1945年にドイツおよび日本が降伏したことによって、協定は実質的に効力を失った。
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[[Category:昭和時代戦前の外交]]
[[Category:日独関係]]
[[Category:第二次世界大戦]]
[[Category:ナチス・ドイツの条約]]
[[Category:イタリアの国際関係]]