「美奈宜神社 (朝倉市林田)」の版間の差分
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'''美奈宜神社'''(みなぎじんじゃ)は、[[福岡県]][[朝倉市]]林田にある[[神社]]。
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今から1800年前、父君[[景行天皇]]の教えにそって、[[仲哀天皇]]は皇后と[[熊襲]]を征伐されたが、不幸病にかかり崩御された。
皇后はこのことを泌し、その根幹[[新羅]]を討つべく、出師の計画を立て、兵員を集め、兵船、軍器を整え、神々を祭って本邦最初の外征に肥前名護屋から出征していった。
皇后は航海中船中で[[素戔嗚尊]]、[[大己貴命]]、[[事代主命]]の
海上恙なく船は新羅の港に到着し、戦端は開かれた。戦いは連勝し
そのあと戦争に勝利を祈られた
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===創建===
神功皇后摂政
皇后は、神様にお祈りされ、「この潮干玉を使って川の水をからにし、川蜷に頼んで、一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って、一度に水を入れ水攻めにして滅ぼしなさい」とお告げになった。
このあと、村は静かな平和な村となった。
[[神功皇后]]は神様をお祭りするお社を建てようと思い、
白鷺は空に舞い上がり、筑後川に沿ってしばらく飛んだ後、こんこんと清水の湧きでる所に舞い下りた。
皇后様は、その近くに神様を祭るお社を建てた。蜷城(になぎ)を美奈宜(みなぎ)とあて、美奈宜神社と命名。
また川蜷が守ってくれた村里をニナシロと呼び、なまって、ヒナシロという地名なったといわれる。
白鷺塚は今も片延字白鷺
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奈良朝時代、天下に事ある時、国内の著名な神社に勅使が参向して祈願する神社([[名神大社]])が当時全国で204社(祭神数285座)ある。
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前記のように美奈宜神社は奈良時代、平安時代に名神祭の栄誉を受けた神社である。
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[[三代実録]]によると清和天皇貞観元年(859年)1月27日筑前国従五位の下美奈宜神社従五位上の授位が行われた事が登録されている。
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往古美奈宜神社が九州の著名な神社として国家のいくつもの史書に記載されていたことは、つまり[[筑後川]]が古代の人々の生活を支えていてこの川の両岸に古代の集落が発生し、年と共に発展して行きこの川が九州を横断する主たルートであり、この川畔に祭られた美奈宜神社が両岸の多数の群落の人々はもちろん、多くの旅人からも厚い崇敬を集めていた事の証左だあるとも言える。
延元
また永正
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慶長6年(1601年)[[福岡藩]]初代藩主[[黒田長政]]公の信仰は篤く、社殿の造営があり、下座郡総社と定められた。
元禄15年(1702年)には現在のご神門が建築された。元禄17年(1704年)に現在の石鳥居が建納され、[[貝原益軒]]の妻江島氏の筆にて柱の銘が刻まれている。
弘化
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明治30年(1897年)に縣社に昇格し、昭和28年(1953年)に国家管理を離れ、宗教法人美奈宜神社として現在に至る。
江戸時代から続く蜷城の獅子舞は福岡県の[[無形文化財]]に指定されている。
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===蜷城の獅子舞===
この獅子舞は毎年
獅子は長田・鵜ノ木地区から奉納され、長田地区は神幸神輿の警護、鵜ノ木地区は神輿台を祓う役を負っている。
この獅子舞の特徴は、筑前地方に多い伎楽系統の獅子舞とは異なり舞楽を伴わず、芸能的な部分が少ない。
また、病気除けや豊作を願うという信仰に、祓いの獅子の姿がよく伝えられている。この系統の獅子は、筑後川中流域の各地に伝承されているが、現在に至るまで本格的な形態を残しているのは蜷城のみである。
昭和
[[File:蜷城の獅子舞.JPG|thumb|蜷城の獅子舞]]
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