「マリーア・テレーザ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ」の版間の差分

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[[両シチリア王国]]最後の王[[フランチェスコ2世 (両シチリア王)|フランチェスコ2世]]の異母弟[[ルイジ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1838-1886)|トラーニ伯ルイジ]]と、バイエルン公[[マクシミリアン・ヨーゼフ・イン・バイエルン|マックス・ヨーゼフ]]の娘[[マティルデ・イン・バイエルン|マティルデ]]の間の一人娘として、両親の亡命先である[[スイス]]の[[チューリッヒ]]、エンゲ地区の邸宅「ヴェネツィア館(Venediggut)」で生まれた。マリーア・テレーザは家族からドイツ語の愛称「'''メーディ'''('''Mädi''')」で呼ばれた。母方の伯母はオーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世|フランツ・ヨーゼフ]]の皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]であり、マリーア・テレーザは皇帝夫妻の末娘で1歳年下の従妹である[[マリー・ヴァレリー・フォン・エスターライヒ|マリー・ヴァレリー]]大公女とは生涯を通じて親友だった。
 
1889年6月27日に[[ジグマリンゲン城]]において、[[ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン]]侯爵家の世継ぎ侯子[[ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン|ヴィルヘルム]]と結婚し、あいだに3人の子供をもうけた。この縁組により、ホーエンツォレルン侯家は[[ハプスブルク家]]や[[ヴィッテルスバッハ家]]とも親族関係を築くことが出来た。1905年、夫がホーエンォレルン侯爵家の家督を継ぐと、マリーア・テレーザもホーエンツォレルン侯爵夫人となった。
 
マリーア・テレーザは長年脊髄の病気に苦しみ、医者は全て匙を投げ、気候に配慮した手厚い看護も病気を快方には向かわせなかった。おそらく[[多発性硬化症]]だったと考えられている。彼女は夏は大抵[[バート・テルツ]]に、冬はカンヌに療養に出かけた。ジグマリンゲンにある侯爵家の居城は高い位置にあるため、彼女の体に良くないとされたのである。夫のヴィルヘルムは療養先にしばしば妻を見舞い、子供たちも休暇には常に母親の元で暮らした。