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[[ファイル:Sugino Toseiji Tsugufusa.jpg|thumb|180px|『義士四十七図 杉野十平次次房』([[尾形月耕]]画)]]
'''杉野 次房'''(すぎの つぎふさ、[[延宝]]4年([[1676年]]) - [[元禄]]15年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[1703年]][[3月20日]]))は、[[江戸時代]]前期の[[武士]]。[[赤穂浪士]]四十七士の一人。[[赤穂藩]]では8両3人扶持しか支給されなかったが、資産家萩原家の一族であったため裕福で知られた。通称は'''十平次'''(じゅうへいじ)。
 
== 生涯 ==
延宝4年(1676年)、[[赤穂藩]][[浅野氏|赤穂浅野家]]家臣[[杉野平左衛門]]の四男として[[赤穂市|赤穂]]に生まれる。母は浅野家臣の[[萩原新左衛門]]の娘。母方の萩原家は赤穂藩士たちのでも随一の資産家の家系で知られた。長兄[[杉野兵左衛門]]が杉野家の家督を継ぎ、次兄[[萩原三右衛門]]と三兄[[萩原平七]]は萩原家の養子に入った。次房は杉野家の分家筋として8両3人扶持を支給され、札座横目に任命された。[[元禄]]7年([[1694年]])2月の[[備中松山城]]受け取りの軍にも従軍している。
 
元禄14年([[1701年]])3月14日に主君[[浅野長矩]]が江戸城で[[高家 (江戸時代)|高家]][[吉良義央]]に刃傷に及んだとき、杉野は赤穂にあった。4月、[[赤穂城]]開城の際に大伯父にあたる[[萩原兵助]]は、萩原家伝来の大砲2門を収城軍の[[脇坂氏|脇坂家]]に売り払い、これが家中から批判されて、萩原一家は赤穂から逃亡した。杉野も親族として肩身が狭かったとみえ、このあと萩原家と絶縁している。
 
赤穂城開城後はすぐに江戸へ下向し、江戸急進派と一緒に行動した。また杉野は萩原家から莫大な資産を受けていたので、これを使って彼らの生活を助けた。元禄15年([[1702年]])6月には浅草茶屋において特に親しくしていた[[前原宗房]]・[[倉橋武幸]]・[[勝田武尭]]・[[不破正種]]・[[武林隆重]]らとともにとともに同盟の誓約をする。8月から三ツ目横丁より吉良邸のある本所へ住居を移し、[[吉良氏|吉良家]]の動向の監視にあたった。吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属し、[[三村包常]]とともに木槌で裏門を打ち壊す役割をになう
 
吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属し、[[三村包常]]とともに木槌で裏門を打ち壊す役割をになう。本懐後、[[長府藩]]毛利家上屋敷へ預けられ、元禄16年([[1703(1703]])2月4日に[[毛利氏|毛利家]]家臣[[榊庄右衛門]]の介錯で切腹した。[[享年]]28。主君浅野長矩と同じ[[泉岳寺]]に葬られた。法名は刃可仁劔信士。
 
== 逸話 ==
杉野次房といえば[[俵星玄蕃]]との逸話が有名である。杉野次房は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていたが、この蕎麦屋の常連客俵星玄蕃と親しくなった。かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、浅野長矩の遺臣たちが吉良邸へ討ちいったことを知り、すぐに吉良邸前(もしくは[[両国橋]])にはせ参じた。すると赤穂浪士達の中になんと蕎麦屋の十助がおり、2人は今生の別れを交わす。というもの。
 
この俵星玄蕃と杉野次房の話は[[文化 (元号)|文化]]の頃に[[講釈師]][[大玄斎蕃格]]の創作した逸話である。玄蕃の名は自らの「玄」と「蕃」の字の組み合わせ、また「俵」は槍で米俵も突き上げるという意味、さらに「星」の字は『[[仮名手本忠臣蔵]]』の主人公大星由良助([[大石良雄]]がモデル)の「星」の字であるという。