削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
28行目:
 
== 来歴・人物 ==
[[京都市立西京高等学校|西京商業高校]]では、[[1972年]]夏の京滋大会府予選準々決勝に進出。[[花園中学校・高等学校|花園高]]の[[斉藤明夫]]投手と投げ合い、延長16回の熱戦の末に6-4で勝利。しかし準決勝では[[京都府立西舞鶴高等学校|西舞鶴高]]に敗退し、甲子園には届かなかった。本格派で速球を武器に通算26試合で計234三振を奪った。同年のドラフト1位で巨人に指名され入団。エース堀内によく似たタイプと言われていた。
[[京都市立西京高等学校|西京商業高校]]から、1973年ドラフト1位で巨人入団。3年夏の全国高校野球京滋大会では準決勝で敗れたが、関西高校球界ナンバーワン
 
の評判が高かった。本格派で速球を武器に、26試合で合計234三振を奪っている。エース堀内によく似たタイプと言われていた。
ドラフト当日、中井はまさか自分が指名されるとは思っておらず、同級生らと喫茶店に行っていた。ところが、巨人が第1位で指名となって、学校総出で中井の行く先を探したとのことである。投手として入団も、肩の故障により[[1978年]]から野手へ転向。1978年の[[イースタン・リーグ]]では[[首位打者]][[打点王]]の二冠に輝く。主に外野守備固めや代走での起用が中心であった。[[1979年]]から一軍に定着、4月11日の阪神戦では[[初打席本塁打|初打席初本塁打]]を記録している。同年は92試合に出場、打率.257の記録を残す。その後も主に外野の守備固めや代走で起用される。[[1981年の日本シリーズ]]には6試合に出場。第5戦では二番打者として先発し5打数2安打、8年ぶりの日本一に貢献した。[[1984年]]限りで現役引退。
 
引退後は東京都文京区の護国寺に居酒屋「護国寺なかい」を開業、2007年からはその店舗を港区芝大門に移す(店名は「芝大門なかい」に変更)<ref>{{Cite web|date=2010-06-03|url=http://www5.nikkansports.com/baseball/imai/95840.html|title=元巨人・中井康之「芝大門なかい」/引退後記|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2011-03-15}}</ref>。居酒屋の開店に際して、看板や箸袋の店名を[[長嶋茂雄]]に揮毫してもらった。長嶋の揮毫した看板は移転後も(「護国寺」の部分を省いて)使用されている。