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一方、二度の出撃で戦果を上げた朝鮮水軍の全羅左水使・[[李舜臣]](24隻)は7月6日に日本水軍の動きを察知すると直ちに出撃し、慶尚右水使・[[元均]](7隻)と全羅右水使・[[李億祺]](25隻)の水軍と合流した。
 
7月8日、日本艦隊を発見した李舜臣は出撃を主張する元均を抑え、囮と潮流を使った迎撃作戦を展開した。また、この艦隊には[[亀甲船|亀船]]三隻が参加していたという。<ref>ただし、亀船(亀甲船)の実在も史料上、確証はない。</ref>囮と海流に乗って出撃した脇坂艦隊は朝鮮水軍の迎撃を受け大きな被害を出し、脇坂安治も窮地に陥るが、座乗船の大きさと櫂の数による機動性を生かして撤退に成功した。
 
李舜臣は自身の記録である「見乃梁破倭状」で日本艦隊の発見数を大船36隻・中船24隻・小船13隻、撃破数を63隻と記録している。しかし、脇坂安治への動員定数が1500人であることを考えると、発見数と戦果は過大申告である。(翌年5月の晋州城攻撃時の脇坂軍の点呼員数は900人)
 
この海戦で脇坂安治は部将の脇坂左兵衛と渡辺七衛門を失い、海賊出身の真鍋左馬允は船を失って上陸後に責任感から切腹した。また脇坂艦隊の内、海戦中に船を放棄して閑山島に上陸した者が200人生還している。
 
 
== 安骨浦海戦の経過 ==