「シュテフィ・グラフ」の版間の差分

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独語版、英語版との差分のうち、1987-1988年分を追加。
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===== 1987年:世界トップへ大ブレーク =====
 
シュテフィのグランドスラムトーナメントの突破口は1987に訪れた。年頭から6勝し全仏を迎え、マイアミ・マスターズでは準決勝でナブラチロワ、決勝でエバートを下し優勝したが、そのトーナメント全6回の試合で落としたゲームはたったの20だった。そして、その後の全仏の準決勝でサバティーニをフルセットで倒したあと、決勝で世界ランク1位のナブラチロワに6–4, 4–6, 8–6 で競い勝ち、念願のグランドスラム大会初優勝を遂げた。
[[1987年]][[6月5日]]に[[1987年全仏オープン|全仏オープン]]決勝戦で[[マルチナ・ナブラチロワ]]を 6-4, 4-6, 8-6 で破り、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]初優勝を達成。その年の8月16日に世界ランキング1位となり、[[1991年]]3月11日まで「186週」連続世界1位の座を保持した。これは今なお、女子テニスの史上最長記録として残っている。[[1988年]]に19歳で女子テニス史上3人目の年間[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム]]を達成する。この年に開催された[[ソウルオリンピックにおけるテニス競技|ソウル五輪]]でも金メダルを獲得し、その偉業は「ゴールデン・スラム」と称えられた。「年間ゴールデン・スラム」達成は男女を通じてグラフしかいない。
しかしながら、全英では決勝でナブラチロワに7–5, 6–3敗退する。これはこの年初めての負けだった。その後3週間後のフェデレーションカップ(バンクーバー/カナダ)の決勝ではエバートを6–2, 6–1でたやすく破ったが、全米の決勝では再びナブラチロワに6-7, 1-6で屈した。その年の8月16日に世界ランキング1位となり、[[1991年]]3月11日まで「186週」連続世界1位の座を保持した。これは今なお、女子テニスの史上最長記録として残っている。
 
===== 1988年:先例なき年間ゴールデンスラム =====
 
1988年は全豪オープンの優勝で始まった。全豪の決勝ではエバートを6–1, 7–6で破り、トーナメント中一つのセットも落とさず、たった29ゲーム落としただけだった。 春、ライバルのサバティーニに二回負けた(ボッカ・レイトン/フロリダのハードコート、アメリア島/フロリダのクレーコート)が、サンアントニオ/テキサスで勝ち、マイアミでは再び決勝でエバートを下してタイトルを防衛した。そのあとはベルリンでのドイツ・オープンで、5試合中たった12ゲーム落としただけで優勝した。
全仏オープンでは決勝でナターシャ・ズベレワ(Natasha Zvereva) を6–0, 6–0 (欧米ではゼロを丸いベーグルパンにたとえ、1ゲームも取れない試合のことを「ダブル・ベーグル負け」と言っている。ちなみに、日本には同様な表現で「ダンゴ負け」というのがある。)、32分で退け、タイトルを防衛した。これは 1911以来、大きなトーナメントの決勝では初めてのダブル・ベーグルであった。 4回戦でナブラチロワを破ったナターシャは、決勝ではたった13ポイントしかとれなかった。Herman, Robin (1988年6月5日). “TENNIS; Graf Shuts Out Zvereva to Gain French Open Title”. New York Times 2011年5月17日閲覧。</ref>
次のウインブルドンはナブラチロワが6回連続で優勝していたところだった。決勝でシュテフィは初め7–5, 2–0ナブラチロワに押されていたが、 そこから盛り返し、最終的には5–7, 6–2, 6–1で初優勝した。ゲームの後半ではシュテフィの低めにコントロールしたパッシングショットが決まりまくり、ナブラチロワは得意のネットに出ることすらできなかった。この試合の後、ハンブルグ・マスターに勝ちモーワーで勝ったが、モーワーではたった8ゲームしか落とさなかった。
全米オープンでは決勝でサバティーニをフルセットで破り、前回は1953年にモーリン・コノリー(Maureen Connolly Brinker)とマーガレット・コート(Margaret Court)の決勝で達成されただけの、年間グランドスラム(Calendar Year Grand Slam)を達成した。
シュテフィはさらにソウル・オリンピックでサバティーニを6–3, 6–3 で破って金メダルを獲得したため、メディアはその偉業を「ゴールデン・スラム」と名付けた。
この年にはまた、ウインブルドンでサバティーニと組んでたった一つのダブルスタイトルを獲得している。また、同じペアでオリンピックダブルスの同メダルを獲得している。
このように輝かしい経歴を残した1988年だったが、年末のバージニアスリムスWTAチャンピオンシップ(Virginia Slims Championships)では病気に悩まされ、パム・シュライバー (Pam Shriver)に負けてしまったが、これは、この年の負けたった3つのうちの一つである。シュテフィは「1988年BBC海外スポーツ選手賞( BBC Overseas Sports Personality of the Year)」に輝いた。
[[1987年]][[6月5日]]に[[1987年全仏オープン|全仏オープン]]決勝戦で[[マルチナ・ナブラチロワ]]を 6-4, 4-6, 8-6 で破り、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]初優勝を達成。その年の8月16日に世界ランキング1位となり、[[1991年]]3月11日まで「186週」連続世界1位の座を保持した。これは今なお、女子テニスの史上最長記録として残っている。[[1988年]]に19歳で女子テニス史上3人目の年間[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム]]を達成する。この年に開催された[[ソウルオリンピックにおけるテニス競技|ソウル五輪]]でも金メダルを獲得し、その偉業は「ゴールデン・スラム」と称えられた。「年間ゴールデン・スラム」達成は男女を通じてグラフしかいない。
 
オリンピックにおけるテニス競技は、[[1928年]]の[[アムステルダムオリンピック|アムステルダム五輪]]以後、プロ選手の登場により除外されていた。しかし[[1988年]]の[[ソウルオリンピック|ソウル五輪]]でプロテニス選手の出場が認められ、64年ぶりにオリンピック競技としてのテニスが復活する。オリンピックはアマチュアの祭典である、という基本理念を覆す決定がなされたため、当時は大きな波紋を呼んだ出来事だった。グラフは早くからオリンピック参加に積極的な姿勢を示し、[[1984年]]の[[ロサンゼルスオリンピック (1984年) におけるテニス競技|ロサンゼルス五輪]]「公開競技」で優勝した後、ソウル五輪の女子シングルス決勝で[[ガブリエラ・サバティーニ]]を 6-3, 6-3 で破って金メダルを獲得した。しかし、[[1992年]]の[[バルセロナオリンピックにおけるテニス競技|バルセロナ五輪]]決勝では当時16歳の[[ジェニファー・カプリアティ]]に 6-3, 3-6, 4-6 で敗れて連続金メダルを逃し、[[アトランタオリンピックにおけるテニス競技|1996年アトランタ五輪]]では左膝故障のため出場断念を余儀なくされている。