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{{政治家
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|画像=Arthur-Neville-Chamberlain.jpg
|画像サイズ=
|画像説明=
|国略称=
|生年月日={{生年月日と年齢|1869|3|18|死去}}
|出生地={{GBR3}}<br>{{ENG}}、[[バーミンガム]]<br />エッジバストン
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1869|3|18|1940|11|9}}
|死没地={{GBR}}<br>{{ENG}}、[[ハンプシャー]]<br />ヘックフィールド
|出身校=[[バーミンガム大学|メイソン・サイエンス・スクール]]
|前職=[[実業家]]
|現職=
|所属政党=[[保守党 (イギリス)|保守党]]
|称号・勲章=
|親族(政治家)=[[ジョゼフ・チェンバレン]](父)<br>[[オースティン・チェンバレン]](兄)
|配偶者=アンネ・チェンバレン
|サイン=Neville Chamberlain Signature 2.svg
|国旗=
|職名={{GBR}}第60代[[イギリスの首相|首相]]
|内閣=
|就任日=[[1937年]][[5月28日]]
|退任日=[[1940年]][[5月10日]]
|元首職=
|元首=[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]
|国旗2=
|職名2={{GBR}}[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]
|内閣2=
|就任日2=[[1923年]][[8月17日]] - [[1924年]][[1月22日]]<br>[[1931年]][[11月5日]]
|
|元首職2=首相
|元首2=[[スタンリー・ボールドウィン]]<br>[[ラムゼイ・マクドナルド]]<br />[[スタンリー・ボールドウィン]]
|国旗3=
|職名3={{GBR}}保健大臣
|内閣3=
|就任日3=[[1923年]][[3月7日]] - [[1923年]][[8月27日]]<br>[[1924年]][[11月6日]] - [[1929年]][[6月4日]]<br>[[1931年]][[8月25日]]
|
|元首職3=首相
|
|国旗4=
|職名4={{flagicon|GBR}} [[枢密院 (イギリス)|枢密院]]議長
|内閣4=
|
|退任日4=[[10月3日]]
|元首職4=
|元首4=[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]
}}
[[ファイル:MunichAgreement.jpg|thumb|220px|right|ミュンヘン会談からの帰国後に会見するチェンバレン]]
'''アーサー・ネヴィル・チェンバレン''' (
==
[[バーミンガム]]市長や[[植民地]][[大臣]]などを歴任した[[ジョゼフ・チェンバレン]]を父としてバーミンガムのサウスボーンで生まれる。6歳の時に母親が死去した。
[[ラグビー校]]で教育を受け、さらにメイソン・サイエンス・スクール([[バーミンガム大学]]の前身)でも学び、科学と[[冶金学]]([[金属工学]])の学位を得て、卒業後は[[監査法人]]に就職した。
一方で父ジョ
=== 政治経歴 ===
その後実業界で成功を収め、この時に得た名声を後ろ盾
===
====内政====
[[1937年]]
====外交====
当時イギリスや[[フランス第三共和政|フランス]]と軍事増強と領土の拡大を進める[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]、[[イタリア王国|イタリア]]などとの間で政治的緊張が増す中、チェンバレンが
これは、ドイツの関心を[[ソビエト連邦|ソ連]]に向けさせる意味と、イギリスの防備の時間稼ぎをする意味があった。当時の保守勢力の主流にとって、ソ連を頂点とする[[共産主義]]陣営や、彼らによる[[共産主義革命]]の誘発への警戒心は強かった。そこで、ヒトラー政権を抑えてソ連に付け入る隙を与えるよりは、対ソの[[勢力均衡|抑止力]]となることを期待したのである。[[スペイン内戦]]に不介入で通したのも、介入すればそれが世界大戦の引き金になり、ソ連を喜ばせるだけであるという判断があったからだった。
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=== 失意の辞任とその後 ===
[[1939年]][[9月1日]]の[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]侵攻と、同日に駐独イギリス[[特命全権大使]]を通じてポーランドからの撤退を勧告した最後通告への返答がなかったことを受けて、2日後の[[9月3日]]にチェンバレンも対独宣戦布告を決意し、首相官邸からの[[ラジオ]]演説を通じてイギリス国民にドイツとの交渉決裂と戦争状態への突入を発表し、ここに[[第二次世界大戦]]が勃発した。
しかし、開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんど無かったことから(いわゆる「[[まやかし戦争]]」)、チェンバレンはなおも秘密裏にドイツと交渉を続け、[[ホラス・ウィルソン]]を使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。
その後、[[1940年]]4月にドイツ軍の[[北欧侵攻|ノルウェー作戦]]の阻止に失敗、同年[[5月10日]]、ドイツ軍が[[ベネルクス
この挙国一致内閣の組閣においてチェンバレンはチャーチルから下院院内総務兼枢相への就任を要請されたが、この人事に対して挙国一致内閣に参加した労働党の[[クレメント・アトリー]]が難色を示したため、チェンバレンは枢相のみへの就任にとどまった<ref>[[ウィンストン・チャーチル]]著、[[佐藤亮一 (翻訳家)|佐藤亮一]]訳『第二次世界大戦2(新装版)』河出文庫,2001年7月,16頁</ref>。
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Neville Chamberlain}}
*[[世界恐慌]]
*[[反共主義]]
{{start box}}
{{s-off}}
{{Succession box
| title = {{
| years = 第60代:1937 - 1940
| before = [[スタンリー・ボールドウィン]]
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}}
{{Succession box
| title = {{
| years = 1923 - 1924<br />1931 - 1937
| before = [[スタンリー・ボールドウィン]]<br />
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| years = 1923<br />1924 - 1929<br />1931
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{{s-par}}
143 ⟶ 114行目:
| title = {{flagicon|GBR}} [[枢密院 (イギリス)|枢密院]]議長
| years = 1940
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| after =
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156 ⟶ 127行目:
{{イギリスの首相}}
{{DEFAULTSORT:ちえんはれん ねういる}}
[[Category:イギリスの首相]]
[[Category:イギリス保守党の政治家]]
[[Category:第二次世界大戦期の政治家]]
[[Category:イギリスの実業家]]
[[Category:バーミンガム出身の人物]]
[[Category:1869年生]]
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