「ウマイヤ朝」の版間の差分

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Tantal (会話 | 投稿記録)
第二次内乱からアブドゥルマリク時代を加筆
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アブドゥルマリク以降から滅亡までを加筆。
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この後、長い間地中海はイスラームの海となる。こうして東へ西へとウマイヤ朝は拡大してゆき、[[ワリード1世]]の治世である8世紀初頭に最大領域となった。
 
=== 最後の輝きと滅亡の原因 ===
==== マワーリー問題 ====
アラブの部族対立、地方の反乱などが続く中、税の問題で不満を持つマワーリー、ムアーウィヤのカリフ位を否定し反ウマイヤ家を掲げる[[シーア派]]、ホラーサーン人(移住したアラブ人)などの協力を得た[[アッバース家]]の反ウマイヤ家運動([[アッバース革命]])により、8世紀中頃にウマイヤ朝は滅亡を迎えた。
アブドゥルマリクは、ウマイヤ朝を再統一したが、ウマイヤ朝の版図で、新たな問題が生まれていた。イスラームの教義で、ムスリムは十分の一税(ウシュル)のみを租税として支払うものの、ジズヤとハラージュが免除されており、異教徒は、重税の負担を余儀なくされた{{sfn|佐藤|2008|p=136}}。そのため、異教徒は、次々とイスラームへと改宗し、租税の負担を回避するために、都市へと流入した{{sfn|佐藤|2008|p=136}}。異教徒からイスラームへ改宗した人々を'''[[マワーリー]]'''と呼ぶ。マワーリーの都市の流入は国庫の歳入の減少を意味した{{sfn|佐藤|2008|p=136}}。
 
第8代カリフである[[ウマル2世_(ウマイヤ朝)|ウマル2世]](在位:[[717年]]-[[720年]])は、マワーリーの問題に対処するために、マワーリーの不満を解消するための改革を実施した。その内容は、以下の通りである{{sfn|佐藤|2008|pp=138-139}}。
#民族のいかんを問わず、イスラームへの改宗を自由に認めた。
#ムスリムのミスル(都市)への自由を認めた。
#ムスリムには、一切租税が課されず、宗教的な義務としてのサダカを課した。
#ミスルに移住したマワーリーを官庁に登録し、俸給(アター)を支給した。
#農村にとどまったマワーリーには従来通りの租税を徴収した。
#ヒジュラ暦100年(718年8月3日から719年7月23日)以後、耕地の販売を禁止した。
 
しかし、ウマル2世の統治が短かったこともあり、ウマル2世の改革は、ほとんど効果が無かったと考えられる{{sfn|佐藤|2008|p=140}}。マワーリーは、都市への自由を獲得したものの、それで生計が立てられるわけでもなかった。農民には、従来通りの租税が課せられたわけで、イスラームの教義である「神の前での平等」とは明らかに矛盾した状況は変わらなかった{{sfn|佐藤|2008|p=140}}。
 
==== 部族対立の潜在化と地方の反乱 ====
アブドゥルマリクの第4子で、第8代カリフとなった[[ヒシャーム・イブン・アブドゥルマリク|ヒシャーム]](在位:[[724年]]-[[743年]])の時代は、ウマイヤ朝最後の輝きを見せた時代である。しかしながら、ヒシャームの時代でも、マワーリーの問題が解決したわけでもなく、さらには、アラブ人の部族対立が明らかとなった時代であった。
 
時代は、ウマイヤ朝草創期にさかのぼる。アラビア半島からイラクへと進出したアラブ人の主力は、北アラブの出身であり、その中でもカイス族が最有力であった{{sfn|佐藤|2008|p=141}}。一方で、シリア移住したアラブ人の出身は、南アラブの出身であり、その中でもイエメン族が有力であった{{sfn|佐藤|2008|p=141}}。ムアーウィヤの権力基盤は、イエメン族に置いていた{{sfn|佐藤|2008|p=141}}。一方、時代は下り、アブドゥルマリクとハッジャージュはカイス族を重用した{{sfn|佐藤|2008|p=141}}。ヒシャームは、イラクに基盤を置くカイス族とは距離を置き、カイス族出身のイラク総督を解任し、その後任には、イエメン族を充てた{{sfn|佐藤|2008|p=141}}。カイス族とイエメン族の対立は、カリフ位をめぐる権力闘争、重要な行政職の獲得競争と深くかかわるようになったのである{{sfn|佐藤|2008|p=141}}。
 
ヒシャームの時代は、地方で反乱も起きた。[[734年]]、[[ホラーサーン]]地方に進出したアラブ軍が、[[西突厥]]の[[蘇禄]]と結び、ウマイヤ朝に反旗を翻した{{sfn|佐藤|2008|p=141}}。ホラーサーンに進出したアラブ人の主力は、イラクの[[バスラ]]からイランに定住したアラブ人であり、彼らは、ムスリムであれば当然であるアラブ人の特権が認められることは無く、不満が鬱積していた{{sfn|佐藤|2008|pp=141-142}}。この反乱自体はすぐに鎮圧されたものの、不満が解消されることは無かった{{sfn|佐藤|2008|p=141}}。
 
==== シーア派の不満とアッバース家 ====
[[File:Revolt.png|180px|right|thumb|アブー・ムスリムの進軍ルート。緑がウマイヤ朝の版図。]]
680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。フサインの異母兄弟にあたる{{仮リンク|ムハンマド=イブン・アル・ハナフィーヤ|en|Muhammad ibn al-Hanafiyyah|label=ムハンマド}}こそが、[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]及び[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]の正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことを[[カイサーン派]]と呼ぶ。ムフタールの反乱は、692年に鎮圧され、マフディーとして奉られた{{仮リンク|ムハンマド=イブン・アル・ハナフィーヤ|en|Muhammad ibn al-Hanafiyyah|label=イブン・アル・ハナフィーヤ}}は、700年にダマスカスで死亡した。しかし彼らは、イブン・アル・ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた{{sfn|佐藤|2008|p=143}}。カイサーン派は、イブン・アル・ハナフィーヤの息子である{{仮リンク|アブドゥッラー=イブン・ムハンマド=イブン・アル・ハナフィーヤ|en|Abd-Allah ibn Muhammad ibn al-Hanafiyyah|label=アブー・ハーシム}}(? - [[716年]]<ref>Shaban, M.A., ''The 'Abbāsid Revolution'' (Cambridge: Cambridge University Press, 1970), 139. ISBN 978-0521295345</ref>)がイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた{{sfn|佐藤|2008|p=144}}。さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家の{{仮リンク|ムハンマド=イブン・アリー・アッバースィー|en|Mohammad ibn Ali Abbasi|label=ムハンマド}}に伝えられたと主張するグループが登場した{{sfn|佐藤|2008|p=144}}。
 
アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年([[718年]]8月から[[719年]]7月)、各地に秘密の運動員を派遣した。ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧された[[マズダク教]]の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した{{sfn|佐藤|2008|p=144}}。[[747年]]、アッバース家の運動員である[[アブー・ムスリム]]がホラーサーン地方の都市[[メルヴ]]近郊で挙兵した{{sfn|佐藤|2008|p=145}}。イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した{{sfn|佐藤|2008|p=145}}。アブー・ムスリム配下の将軍{{仮リンク|カフタバ=イブン・シャビーブ・アル・ターイ|en|Qahtaba ibn Shabib al-Ta'i}}は、[[ニハーヴァンド]]を制圧後、イラクに進出し、[[749年]]9月、クーファに到達した{{sfn|佐藤|2008|p=146}}。
 
749年11月、クーファで、[[アブー・アル・アッバース]]は、忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した{{sfn|佐藤|2008|p=146}}。[[750年]]1月、ウマイヤ朝最後のカリフ、[[マルワーン2世]]は、イラク北部・[[モスル]]近郊の{{仮リンク|ザーブ川|en|Great Zab}}に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した({{仮リンク|ザーブ河畔の戦い|en|Battle of the Zab}})。ザーブ河畔の戦いでウマイヤ軍を破ったアッバース軍は、これにより、ウマイヤ朝の滅亡を確定させた('''[[アッバース革命]]''')。
 
ウマイヤ家のほとんどが、アッバース家による追及で殺害された。その中で、第10代カリフ・ヒシャームの子供である[[アブド・アッラフマーン1世]]がその人で、シリアからモロッコに逃れた彼は、後ウマイヤ朝を建国することとなる。
 
== 年譜 ==
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== 経済 ==
[[File:Umayyad calif Sassanian prototype copper falus Aleppo Syria circa 695 CE.jpg|180px|left|thumb|695年に鋳造された銅貨]]
第5代カリフ・アブドゥルマリク以前の王朝の[[通貨]]は、イラン、イラクを中心とする旧ササン朝の領域は、'''ディルハム銀貨'''が流通していた{{sfn|佐藤|2008|Pp=125}}。一方で、シリア、エジプトといった旧東ローマ帝国の領域は、'''ディナール金貨'''が流通していた{{sfn|佐藤|2008|P=125}}。ウマイヤ朝により、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがる広範な地域がひとつの経済圏としてまとまり、「イスラームの平和」が確立し、商品流通が活発化したことで、旧来の貨幣システムが対応しきれなくなった{{sfn|佐藤|2008|Pp=125}}。そこで、695年、アブドゥルマリクは、表に[[クルアーン]]の文句を、裏に自らの名前を刻んだ金貨と銀貨を発行した{{sfn|佐藤|2008|Pp=125}}。このことで、アラブ世界は、金銀両本位制が確立し、この貨幣システムを基礎に、官僚や軍隊への俸給(アター)の支払いが現金で可能となった{{sfn|佐藤|2008|Pp=125}}。
 
== 税制 ==