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明治になると、大平第三番小学正道学校や大平郵便局も設置され、長野県南部と周辺都市との交通や物流の要所となった。明治42年、木曽に[[中央本線]]が全線開通すると最盛期を迎え、戸数70を超える賑わいを見せた。しかし、大正12年に[[伊那電気鉄道|伊那電鉄]]が飯田まで開通すると、それまで大平宿を通って中央線を利用していた人々が減少し、さらに昭和30年代に[[清内路村]](現[[阿智村]])の[[清内路峠]]を越える国道256号が開通すると大平街道の交通や物流は減少の一途を辿った。また、高度経済成長によるエネルギー需要の変化により村の中心産業であった林業(炭焼き)が成り立たなくなり、昭和35年の戸数は全盛期の半数以下の38戸にまで減少した。
 
昭和45年、住民の総意として集団移住を決定し、同年11月末、大平宿は約250年の歴史に幕を下ろしたが、現在でも有志(のこす会や大平建築塾などの団体)によってその維持が続けられている。
 
==沿革==